放送作家、タレント、演芸評論家、そして立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、駒沢球場で見た「東映フライヤーズ」の思い出について綴る。
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こんな時代に張本勲の話を1時間もきけるなんて。BSで放送している『鶴瓶ちゃんとサワコちゃん(阿川佐和子)』に先日出演したのだ。貴重。
想い起こせば私が見たのはもう65年も前の話だ。1964年、東京五輪が開かれるまで世田谷には「駒沢球場」があった。のちに駒沢公園となる。小学生の我々は自転車でいつも田んぼの中、暴れん坊軍団「東映フライヤーズ」を見に行った。
なんたって張本である。そこに怪童尾崎が入ってきた。スピードガンはあの時代無かったが、私の目では、間違いなく180キロは出ていた。エースは江戸っ子土橋である。浅草の魚屋のセガレ。フランス座の草野球では“やとわれエース”。後ろを見るといかにも下手そうな渥美清と井上ひさしが三遊間に立っていた。後年、私と土橋氏は気が合い『プロ野球ニュース』のオフシーズン、ふたりで“言いたい放題”のコーナーを2年やった。
東映には毒島といういぶし銀やら、本塁を死守する“ケンカの八郎”こと山本八郎がいた。敵のランナーが本塁へ突入してくると即パンチだった。滅法ケンカが強かった。
試合が終わると近くに球団の若手選手の寮があって負け試合など真暗な田んぼの中をトボトボ帰っていく。小生意気なガキだった私は、張本を見つけると寄っていき「おい、なんであそこで打てねぇんだよ。しっかり打てよ」など言い放つ。途端に私の頭をパッカーン(昔の話だから大丈夫ですよ)。怖! やっぱり大人のスポーツ選手はこわいと思った。
翌日この話が学校中に広がり、私は「張本勲になぐられた男」として一躍有名になり、英雄視されるようになった。その後の大活躍はご存じの通り。「安打製造機」であり「広角打法」であり「扇打法」である。東映そして日本ハム。
ここからの話はテレビで見たのだがいい話。行く球団がなくて困っているところへ阪神の吉田監督から声をかけられた。「おいっハリ、行くとこないんか。なんやったら阪神来るか?」。嬉しくて「ハイ」。すぐに甲子園の近くに小さな土地を買った。
そのすぐ2日後、巨人関係の偉い人から家へ呼ばれた。「ハリ、お前の好きな球団はどこなんだ」思わず「小さい時から巨人です」と言っちゃった。その声をきっかけに奥のふすまが開き長嶋茂雄が出てきた。「ウ~ン、いわゆるひとつのハリ、巨人軍の為に一緒にやっていこう」と握手された。心は舞いあがった。「2日だけ下さい」。
意を決して張本は吉田に電話。怒られると思い巨人入りを告げると吉田「そらぁええわ。セリーグが盛りあがる。巨人行きや」。一番大きな心は吉田かもしれない。
※週刊ポスト2024年10月4日号