自民党総裁選の火ぶたが切られ、岸田文雄政権がひっそりと幕を下ろそうとしている。新総裁を迎える前に、岸田政権とは何だったのか総括すべきではないか。佐藤優・元外務省主任分析官と山口二郎・法政大学教授が指摘する。(共著『自民党の変質』祥伝社新書より抜粋。前後編の前編)。
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宏池会幻想(山口)
岸田さんが首相になった時、安倍さんに飽きた人たち、あるいは安倍さんを嫌だと思っていた人たちは、岸田さんに“宏池会幻想”を貼りつけ、何かが変わるのではないかと期待をした瞬間がありました。
宏池会は、吉田茂さん(第四五・第四八~五一代首相)の系譜を継ぐ、大蔵省(現・財務省)出身の池田勇人さん(第五八~六〇代首相)が一九五七年に結成した自民党保守本流の派閥です。以後、大平正芳さん(第六八〜六九代首相)、鈴木善幸さん(第七〇代首相)、宮澤喜一さん(第七八代首相)、岸田さんと宰相を輩出しています。
宏池会の基本的国家路線は「軽武装・経済重視」でした。しかし、これは二〇一〇年代に入ると崩壊します。しかも一一年にわたり宏池会会長を務めた岸田さんは、裏金問題を契機に派閥を離れ(二〇二三年一二月七日)、宏池会自体の解散も決まりました(二〇二四年一月二三日)。岸田さんが「軽武装」を置き去りに、防衛費の増額を決めたことは述べたとおりです。“宏池会幻想”は、文字どおり「幻想」のまま終わったのです。
宏池会の基本路線のひとつ「経済重視」に関して、池田内閣は一九六〇年に、一〇年間で国民の所得を二倍にする「国民所得倍増計画」を掲げました。農工業の生産力向上、輸出増による外貨獲得、インフラ(道路、鉄道、港湾)整備のための公共事業推進などが具体的な経済政策の柱です。そののち、東京オリンピック(一九六四年)特需などもあり、日本が高度経済成長期を迎えたのは周知のとおりです。経済成長が担保されることで、宏池会路線は国民の支持を得ました。
もうひとつの「軽武装」では、日本は日米同盟を堅持し、国際社会において軍事面で突出することなく、ひたすら低姿勢で行動する。国内では自衛隊も重装備をせずに専守防衛に徹する──この路線が太平洋戦争を経験した世代に支持されたのです。
しかし、時間の経過とともに、宏池会路線の効力は減摩していきました。バブル崩壊後の一九九〇年代以降、日本人の平均年収はほぼ横ばいですが(国税庁「民間給与実態調査」)、国民負担率(租税負担と社会保障費負担)と消費者物価が上がっていますから、実質的な所得はマイナスです。
小泉純一郎さんと竹中平蔵さん(経済学者。第一次~第三次小泉内閣で金融担当大臣・経済財政政策担当大臣・総務大臣)に象徴される新自由主義は、国民の間に格差を生じさせました。もっとも、竹中さん本人は、私との対談(「中央公論」二〇〇八年一一月号)で「私のどこが新自由主義者なのか」と否定していましたが(笑)。
また人口比率を見ると、戦後生まれの人口は、バブル景気に沸いていた一九八七年に全体の六割、二〇一四年には八割を超えました。すなわち戦争を知らない世代が圧倒的に増え、宏池会を支えた戦争体験者が減り続けたのです。
さらに言えば、一九九七年に横田めぐみさんの拉致事件が発覚し、被害者の家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)が結成されます。時を同じくするかのように、中国は経済的・軍事的に膨張していきます。こうした北朝鮮と中国の脅威という現実が出てくるなかで、日本は戦後はじめて〝被害者〟の立場に回りました。日本政府は一七人の拉致被害者を認定し、中国に対しては「経済力と軍事力で日本が圧迫されている」と、被害者意識を持つようになりました。
安倍政権は、この被害者意識を内政・外交に利用しましたが、それはまさしく宏池会路線を支えた前提条件が崩壊したことの裏返しだったのです。
安倍さん自身にも、被害者意識は内包されていたと思います。安倍さんは、祖父であり第五六〜五七代首相を務めた岸信介さん以来の、右派ナショナリズムの後継者ではあるけれども、彼が折に触れて述べたように、戦後において「まっとうな保守」が抑圧・迫害されてきたとする感覚を持ち続けていたのでしょう。