【書評】『室町ワンダーランド あなたの知らない「もうひとつの日本」』/清水克行・著/文藝春秋/1760円
【評者】関川夏央(作家)
清水克行は日本史研究者、室町時代を専門とする。時代劇でなじんだ江戸時代より影は薄いが、畳を敷きつめた和室、書院造り、違い棚、水墨画など、昭和の終りまで室町文化は生きていた。
それだけではない。タテの権力が弱くなった結果、地域共同体としてのムラやマチが成立して、一揆・座・講といったヨコのつながりが強まった。「割り勘」の出現もそのあらわれだった。
幕府の警察権はないも同然、訴えがなければ事件は放置・無視された。訴訟には膨大な時間と費用がかかるから、侵害された権利は個人が暴力的に回復する「自力救済」が普通であった。要するに「やられたらやり返す」、躍動的だが荒々しい社会であった。
一方で、世阿弥が「能楽」を、詞・曲・舞を総合した一種の「ミュージカル」として完成させたのも、この時代である。
著者は能も鑑賞する。しかし「劇的展開は無いし、セリフも唸るような発声で、息の続く限り、やたらと長く延ばす」から、見ていて眠くなる。現代では能一番の上演時間は平均七十七分、自分が知る室町人がおとなしく座って能を鑑賞できたとはとても思えず、長らくモヤモヤしていた。
謎が解けたのは、六代将軍義教の時代の能の上演記録を発見したときである。午前中から夕刻までの七時間で十一番の曲目を演じたという記録で、現代とまったく同じ台本なのに、計算すると一番平均三十八分、休憩があればさらに短くなるから現代の四〇%ほどだ。それなら、気の短い室町人にも鑑賞できただろうと思い、なぜか私たちも安心する。
能の上演時間は、時代とともに少しずつ延びながら現代に至った。その現代の学生諸君は、映画でもオン・ライン講義でも、もちろん能でも、「倍速」で視聴したがるという。時代が下れば社会も人も進歩するといわれるが、それはどうか。彼ら(私たち)の気短さは、室町時代への回帰・退歩ではないのか。
※週刊ポスト2024年10月4日号