自分だけにしかわからない孤独の中で
忍足亜希子は、1970年6月、父親の赴任先である、北海道千歳市で生まれている。両親の愛情を受けすくすくと育っていたが、2歳半を過ぎても発語がなかった。妙だ……と思った父親は、第2子を宿していた妻を気遣って、ひとり亜希子を連れて、札幌にある北海道大学付属病院へと向かった。寒い冬の朝であった。告げられた診断は、両感音性難聴。娘は……きこえない世界に住んでいた。
忍足がデビューしたとき、本人とその母に取材をする機会があった。母は娘の事態を知ったときのことを、「体が沈み込んでいくような感覚を覚えました。何かの間違いだ、と思い、それから1年ほどは夜が来るたびに泣きました」と、声を詰まらせながら話してくださった。
心を立て直せたのは夫の「亜希子には何でも経験させてやろう。どんな困難にぶつかっても、ひるまない子に育てよう」という言葉だったという。両親は頻繁に大自然の中に連れ出しては、思う存分に遊ばせた。そして4歳になったとき、一家は両親の出身地である横浜へ転勤のために転居。ろう学校の幼稚部へと通うことになり、忍足は初めて「自分はきこえない人間なのだ」と知る。その告白はせつないものだった。
「もっと小さい頃ですが、親や弟が口をパクパクして話しているのを見て、私はパクパクするのができない。いったいどうやってするんだろうと不思議でした。でも、きこえないのだと知ったとき、自分は他の人とは違うのだと……泣きました」
ろう者であるという事実は、その後の人生に、ひんやりとした疎外感をもたらすこととなった。同じろう者の子どもらと活発に過ごす時間は楽しかったが、どうしても拭いきれない寂しさがあった。
「自分だけにしかわからない孤独というのか……どうしたらよいのかわからない。不安でした」
小学部に入ると、別の小学校の児童から、すれ違いざまに「病気がうつる」とか、「ヘンな声」とからかわれたりもした。否応なしに社会の現実と直面する時が来ていた。
「そのとき、一緒にいた先生が『あなたたちも耳をふさいでごらん。気持ちがわかるでしょう』と諭してくれたんです。その後、その子たちとは仲良くなった。小さい頃から、世の中にはハンディを持つ人たちがたくさんいる、といった教えをしてくれたらいいのに、と切に思うんです」
中学部は、再び父の転勤により、名古屋の学校へ。ここで校内でのいじめを受けることになる。それまで通学していた学校は手話ではなく、口話(なるべく声を出して喋らせる方法)での訓練をしていたが、転校先は手話が主体だった。それが原因となり、よそ者のように扱われたのだ。
「いじめは3年間続いて、ストレスで頭痛や腹痛が起こり、登校拒否寸前でした。でも母は断固として『休んだらダメ!』と、毎朝、毎朝、追い出すように家を出された。一日休んだら、また一日休みたくなるからと。でも、家にいていいと言われたら、もっと落ち込んで死にたい、とか言い出したかもしれない」
ある日、堪えきれず怒りが沸点に達したとき、首謀の相手の胸ぐらを鷲掴みした。結果、いじめはなくなった。
「母に似て、芯は強いんです(笑い)。母は本当に厳しかった。自分も何度も落ち込んで、這い上がってを繰り返してきたの、と。逆に父はとてもやさしい人。その両方をうまく受け継いだお陰で今の私がいる、と思っています」
(後編につづく)
【プロフィール】
忍足亜希子(おしだり・あきこ)/1970年、北海道生まれ。1999年、映画デビュー。第54回毎日映画コンクール「スポニチグランプリ新人賞」、第16回山路ふみ子映画賞「山路ふみ子福祉賞」受賞。近作に映画『僕が君の耳になる』『親子劇場』、ドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(NHK)ほか。講演会、手話教室開催など、多岐にわたり活躍中。本作は、ロンドン映画祭コンペティション部門、バンクーバー国際映画祭パノラマ部門、上海国際映画祭コンペティション部門に出品された。
取材・文/水田静子 撮影/浅野剛
※女性セブン2024年10月10日号