起源は飛鳥時代という江戸有数の名刹・浅草寺の今でいう仲見世のあたりに、かつては大小様々な子院が十以上も並んでいた。
中でも敷地だけで二千坪近い〈正顕院〉に縁あって寺子屋を開く〈大滝信吾〉が、砂原浩太朗氏の最新作『浅草寺子屋よろず暦』の主人公。代々御膳奉行を務める〈大滝左衛門尉〉の異母弟で、芸者の母の下で育った彼は、そうした事情や屈託を感じさせないほど、兄夫婦や町の人とも良好な関係を築いていた。
第一話「三社祭と鬼」以降、事件は教え子の家庭問題や博打のいざこざといった形でもたらされる。信吾はその一つ一つを見て見ぬふりできずに関わっていく、寺子屋の若き先生なのである。
地方の架空の小藩を舞台にした『高瀬庄左衛門御留書』始め、時代小説の抒情性と現代性とを併せ持つ作品群で幅広い読者を獲得する砂原氏。中でも今作は様々な人の縁から生まれた「運のいい作品」だという。
「打ち合わせで編集の方が寺子屋というアイディアを口にした瞬間、『あ、それはいける』と直感したんです。いろいろな子供やその親が出せて、バラエティ豊かな物語が作れるし、子供ってエネルギーの塊だから、生来持っている明るさや向日性もいい。舞台についても『断然、町場です』と浅草好きなその編集者に推されて。確かに町場の方がいろいろな出自の子がいて、面白くなりそうだと思いました。
そこで、どうせなら浅草寺のなかで寺子屋を開かせたいと思ったのですが、勝手にやるわけにも、と躊躇していました。その矢先、20年来お付き合いいただいている青柳正規先生(東京大学名誉教授)が『浅草寺の人、知ってるよ。紹介しようか』とおっしゃって。さっそく会いに行き、その設定にOKをいただきました。これが巻末に〈協力 金龍山 浅草寺〉というクレジットがある経緯です。ご縁に恵まれた作品ですよね」
こうして浅草寺のまさに境内に舞台を据えた本作は、寺側の協力もあり往時の風情を再現することに成功。例えば第一話は当時3月に開催された三社祭の場面で始まるが、〈桜はすでに散っているが、春霞を押し拓くようにして、時おり日の光が降りそそいでいた〉等々、その出来事が起きた具体的な日時を書かず、花や鳥や季節の移ろいの端正な描写によって表現してしまうのも、砂原作品の魅力だ。
「現代とは暦が違いますからね。3月なのになんで桜が散っているのかとか、微妙なズレに読者が違和感を抱かないための工夫です」