【書評】『陥穽 陸奥宗光の青春』/辻原登・著/日本経済新聞出版/2970円
【評者】平山周吉(雑文家)
政府高官でありながら、立憲民主政体樹立を目ざし、明治政府転覆を計画し、いまは獄中にいる「余」が主人公の長篇小説である。「余」とは、西郷隆盛の蹶起に連動しようとして失敗した陸奥宗光で、後には「日本外交の父」となる陸奥の獄中の語りだ。
本書はその陸奥の目を通して、薩長によってつくられた明治国家を疑い、もう一つのありうべき明治国家を志向した群像たちが描かれる。幕末志士を描いた歴史小説であるが、獄中でベンサムの翻訳に集中する陸奥という思想家をも描き、知的なたくらみにも満ちている。「最大多数の最大幸福」で知られるベンサムの刑務所改善案を獄内で想起する陸奥は、並みの囚人ではない。
陸奥は紀州の出身で、そこは作者の辻原登の故郷でもあり、紀州の描写は美しい。しかし陸奥の活躍の舞台は、坂本龍馬のもとにあった京や長崎、勝海舟に学んだ神戸であった。
陸奥は「才は頭抜けているし、心意気も天晴だが、如何せん理屈が勝ち過ぎる」と海舟にも心配される。危なっかしい存在の才子だった。しかし、抜群の才覚は突出していた。新国家の政治大綱「船中八策」や海援隊のビジネス綱領「愚案」など、陸奥は龍馬の構想に大きな影響を与えていた。龍馬は「君と世界について話したいものだ(世界の咄しも相成可申か)」と陸奥に手紙を出す。それは龍馬が暗殺される八日前だった。
幕末の陸奥が影響を受けたのは、上海で読んだモンテスキューの『法の精神』と、海舟と龍馬とに随行して会った横井小楠の存在だった。小楠の構想した「共和一致の合議政体」は、もうひとつの維新へとつながってゆく。
「もし尊王派が、その古い伝統を理由に“公”の立場に固執するなら、これも“私”ではないのか」
『陥穽』は、幕末維新を歴史小説として娯しめるだけでなく、「政治小説」「思想小説」としての読みごたえもある。近代日本への重厚な批判を秘めた小説だ。
※週刊ポスト2024年10月18・25日号