【書評】『SMの思想史 戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望』/河原梓水・著/青弓社/3300円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
村上信彦は女性史の研究家として、よく知られる。庶民女性の生活史をさぐった先駆的な歴史家として、高く評価されてきた。いわゆるフェミニズムの人たちからも、一定の敬意をいだかれている。
その村上は、『奇譚クラブ』という雑誌への、常連と言っていい寄稿者であった。1950年代に吾妻新というペンネームで、サディストとしての論陣をはっている。女性を、妻をさいなむプレイに、しばしば彼の文章は光をあてていた。
そういう性癖とフェミニズムにもつうじる歴史観は、矛盾しないのか。この点に疑問をいだくむきは、多かろう。だが、著者はサディズムとフェミニズムのおりあえる回路を、あぶりだす。そして、『奇譚クラブ』が、この邂逅をささえうる希有の雑誌であったことを、さぐりあてた。
村上=吾妻は、同誌で沼正三と、ある論争をくりひろげる。スラックスをはいた女性からせめられたい。そう書くマゾヒストの沼を、彼は非難した。スラックスとは言うな、ズボンと言え。以上のようにからんでいる。こんな批判に、いったい何の意味があるのか。誰しも、いぶかしく思われよう。しかし、著者はそこに村上のゆずれぬ歴史哲学を抽出する。
沼が奇書として名高い『家畜人ヤプー』の書き手であることは、知れわたっていよう。このマゾヒズム文芸も、じつは『奇譚クラブ』で連載がはじめられている。そして、同誌は以前から、人間の家畜化が主題となる他の作品をのせていた。『ヤプー』がえがかれる、その下地となった雑誌の現場を、著者はかいまみせてくれる。
『ヤプー』は、日本人が白人女性の家畜となる未来をえがいたSF小説であった。だが、その根には意外なマッチョイズムも、ひそんでいる。旧制高校の出身者に特有のホモソーシャルな価値観や、エリート主義がすけて見えるという。この作品に心をゆさぶられたことのある私も、同類だったのかと自問した。沼正三の正体さがしにも、決着をつけている。
※週刊ポスト2024年10月18・25日号