『美しい人 佐多稲子の昭和』/佐久間文子・著
【書評】『美しい人 佐多稲子の昭和』/佐久間文子・著/芸術新聞社/3300円
【評者】与那原恵(ノンフィクション作家)
澄んだ、冷たい水を飲み干したような爽やかな読後感だ。佐多稲子(一九〇四-九八)は、作家になる以前、作家になってからも〈何度も何度もつまずき転んで、そのつど立ち上がり、顔を上げて曲がりくねった道を再び歩き出した〉人だった。彼女の生涯を、時代状況、文学仲間の群像、いきいきとしたエピソードとともに丁寧に描き出してゆく。
著者は作品を読み解きながら、稲子の絶望と希望、胸に秘めた思い、戸惑いや悔恨といった複雑な感情に寄り添っていく。その筆致は佐多稲子作品にも通じる。
稲子が長崎で誕生したとき、両親はともに十代だった。母は早くに他界。父は浮世離れしていて仕事が定まらず、五度の結婚をすることになる。夜逃げ同然に一家は上京。十一歳の稲子はキャラメル工場の女工として働きに出る。泣きべそをかいてしまう少女に優しい言葉をかけてくれる人もいることを胸に刻んでおり、すでに作家としての感覚を持っていた。
不幸な結婚と離婚を経て、カフェで働いていたときに、雑誌「驢馬」の同人、中野重治、堀辰雄、夫となる窪川鶴次郎らに出会う。〈昭和は、私の青春とともにはじまった〉と稲子は書く。作家としての資質を見出したのは中野だった。「若草」と題した掌編を中野が「キャラメル工場から」に改め、最初の作品となる。順調に歩み出した彼女だが、窪川は面倒な恋愛沙汰を繰り返し、のちに離婚。稲子は共働きの夫婦関係など、今日的なテーマも取り上げている。
時代は戦争へと向かい、人気作家となった稲子は軍部の要請で中国や南方へ派遣される。このことが戦後、戦争責任を問われることになるのだ。けれど稲子が兵士をこの目で見たかったのは、彼女の身近にいた庶民が戦地でどう生きのび、どう死んだのか、それを描きたかったからだろう。作家ならば現地に行くべきだと考えるのは、私にはよく理解できる。
稲子は美しい人だった。美しく生きたいと願った人が歳月を重ねてつくりだした風貌だった。
※週刊ポスト2025年4月11日号