南海電鉄の岸里玉出(きしのさとたまで)駅近く、住宅街の一角に温かい角打ちの世界が広がっていた。8人入れば精一杯の『大安(だいやす)酒店』である。
旨い酒と気心知れた常連同士の会話に1日の疲れが癒やされる
「ここら西成ゆうたら、漫画の『じゃりン子チエ』の世界を思い浮かべてもろたらええねん。下町中の下町よ」と2代目店主の森本淳子さん(65歳)が陽気に迎えてくれる。安く美味しく楽しめるように、つまみは一番高くても400円までに設定されている。
「このお母ちゃんな、料理上手、オモロい、合気道黒帯、と三拍子揃うてるねん」と客から声がかかると、すかさず「そら、私が皆を守るためや」と“黒帯”淳子さん。「頼もしいわぁ」と客らは一同大笑い。
戦後しばらくして、淳子さんの父親が和歌山県からここ西成へやってきて、酒屋を始めたのが最初。跡を継いだ淳子さんが今は暖簾を守っている。
「うちの特徴は、メニューが決まってないこと。ホワイトボードに食材は書くけど値段は書かへんねん。食べたいものはなんでもためしに言うてみて」(淳子さん)。
すると「そやねん。今日は甘エビが入ってるという噂に釣られて来たんや」(40代の常連)と客も慣れたもの。その隣の客が「噂てなんやねん!」と言いながらも「僕もいただこか」と続いた。
柔和な笑顔が印象的な2代目店主の森本淳子さん
淳子さんは、この“システム”のわけをこう語る。
「そもそも、この店でそんなに高い料理は出さへんよ。たとえば、お好み焼きを作る日やったら、私が『なんぼほど欲しいん?』と先に聞くねん。『小皿分なら300円、もっと大きいのがええなら400円や』て。お腹の空き具合も、財布の具合も人によってバラバラやろ? せやから、みんなに好きなように言うてもらうんよ」
これは、なかなか独自のやり方だ。
「それにな、お父ちゃんの頃から、『財布を気にしてドキドキして飲むもんちゃう。それやったら美味しくないやろ。家で飲んだほうがましや』という言葉が代々伝わってるねん。こういう店はな、その日ポケットに入ってたお金で、機嫌よう飲むのがええやんか。ラッキーな感じするやん。そやろ?」
客らがウンウンと深くうなずいた。
「これよ! この気取りのなさですわ」と呼応したのは、京都からわざわざ通うほどこの店を愛している40代のミュージシャン。「袖振り合い、心は開きっぱなしといいますかね。あぁ下町やなあとしみじみ感じます」。この客は、初めて西成に来た日に道に迷っていたら、偶然大安酒店にたどり着き、淳子さんや常連さんに道案内など優しくしてもらったのが通うきっかけだったと語る。「これぞ、角打ちマジックですわ」。
隣り合った客との距離の近さに心がほぐれる
その隣で飲んでいた40代の女性は、「ここのお母ちゃんとは近所付き合い。最初は、この町の保護猫の活動で知り合いました。お母ちゃんは人にも優しいし、猫にも優しい。というかね、この街では人の命も猫の命も価値は同等ですわ!」と、うまそうに盃を傾ける。「ってことは、オレは迷い猫か!」と先程のミュージシャンが叫んで、客らがまた笑った。
じっくり楽しんでいた別の常連が店内を見回して、「ここまで昭和の空気が残る飲み屋はもう少ないやろ。大体が改装してしまうやん。古いなりにカウンターや棚をママが毎日磨いて手入れしてはるから、そこここが光ってる。そんな中で飲む酒はなんともありがたいし旨いんや」(40代・運送)とポツリ。
客の出入りもある。しばらく滞在して楽しんでいる人もいれば、パッと来て、パッと帰る人もいる。それどころか、ニコニコしながら暖簾をくぐり、ぐるりと見回して、皆と目を合わせたのち、何も言わず、また出て行った人もいた。
「それでええねん。思い思いに寄ってくれたら。パトロールでもかまへんねん。みんなそれぞれ、その日の気分があるやんか」と淳子さん。
そう言っていたら、客のひとりが「お母ちゃん、スパゲッティーできるか。まだ小腹空いてるわ」と注文。「はいよ、ちょい待ってや」。淳子さんはガス栓をひねった。それから、白い帳面にナイフで丁寧に削った鉛筆で「スパゲッティー」と書き込むのだった。お酒は「正」の字で足されていった。
「さぁ、ぼちぼち、私も飲もか」と淳子さんの音頭で焼酎ハイボールで乾杯だ。
「ああ、キリッとしてて染みるわ。今夜もええ味やわ」
少し肌寒いこの日は味が染みたおでんが登場
■大安酒店
【住所】大阪府大阪市西成区千本南1-19-10
【電話】06-6661-7154
【営業時間】13~20時 土日休。焼酎ハイボール230円、ビール大びん500円 ※つまみは旬のもの、メニューは毎日変わります。