「ハンギョレ新聞が襲撃された日、母親からベトナムにいる私のもとに電話がありました。実家の前の通りの壁が、一面真っ赤に塗られ、玄関先には3つのドラム缶が置かれた、中身は塩酸だった、というのです。
私はベトナムにいたので直接危害を受けることはありませんでした。ただ、昼夜を問わず、携帯に脅迫電話がかかってくるようになりました。『日本の手先!』『共産主義者』『売国奴』『お前が女じゃなかったら大変なことになっていたぞ』という脅しもあった。
じつは記事を出す前から懸念する声はありました。韓国国内で日本軍の従軍慰安婦問題が問題視され始めたのは1990年代。戦後、50年近くが経過し、加害者も被害者も、それほど多くは生存していない時期になってからでした。ところがベトナム戦争は、1999年当時、まだ戦後30年弱しか経っておらず、現役の軍幹部がいて、退役軍人もまだ50代でした。記事を出すには時期尚早だと言われていたのです」
危惧された通りの強烈な反発によって彼女の「歴史を直視してほしい」という願いは裏切られ、皮肉にもその後「韓国軍によるベトナム虐殺問題」は韓国社会ではタブーとなってしまった。
※赤石晋一郎著『韓国人、韓国を叱る』(小学館新書)より一部抜粋。