なんの飾り気もない、紺地に白で『渡辺酒店』と書かれた暖簾が、冷たい風に揺れている。ガラス戸を開けると、明治・大正・昭和の3つの時代の香りのする暖かい空気が、「おうおう、今日もよう来た」と迎えてくれる。
10人も入れば超満員となるこの小さな酒屋。鍵形のカウンターの向こうには、“お父さん”とも“大将”とも慕われる渡辺正明さん(76)のやさしい笑顔がいつものようにある。この空気と笑顔、温かさとやさしさで、客のだれもが、心と身体にまとった防寒着を脱ぐのだ。
「九州や関東では角打ちというそうですが、神戸じゃ昔からうちみたいな店は立ち呑み屋というんです。こういうところは、損得考えてたら続きません。お客さんとは損得抜き、ざっくばらんなつきあい。仲間、せがれ、兄弟、そんな感じですかね」(渡辺さん)
集まってくる客たちも、気持ちは同じ。だからこそ、お父さん、親父、大将と呼び、この古くて狭いけれど、自分の家のような気持ちよい空間に通い続けるのだ。
「21歳のときに、近くに引っ越してきて、最初は、ビールと天ぷらをここで買って帰ってた。でも、ここで親父さんの顔を見ながら飲んだほうが楽しいことに気がついてね。以来、30年。月~土の毎日5時過ぎにはここに来て、ビール、日本酒、最近は焼酎ハイボールなんかを飲んでる」(倉庫会社勤務の51歳)。
混みあい始めた6時過ぎ、裏口から勝手知ったように入ってきて、カウンターの向こう側で飲みだしたグループがいる。自称、ボートクラブ員。近所にボートピア(場外舟券発売場)があり、店内にボートレースの中継を流すディスプレイがある。つまり彼らは競艇ファンなのだ。
「競艇場へ誘うと、こころよくついてきてくれて、解説もしてくれる。当たろうがはずれようが昼飯をごちそうしてくれる。だけどね。ここに通う決め手になったのは、ボートじゃない。ボート抜きでも、そのまんま、いいお父さんなんですよ。混んでるときは、カウンターの内側に入れてくれるし。こんな店、よそにないでしょ」(20~40代の会社員たち)