第二次世界大戦の敗戦と、その後の復興の目覚ましさという共通点から日本とドイツはよく比較される。そして、その違いもよく引き合いに出される。なぜ日本とドイツは中央集権と地方分権という異なる統治機構ができたのかについて、大前研一氏が解説する。
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なぜ同じ第二次大戦の敗戦国でありながら、中央集権の日本とは180度異なる地方分権の統治機構がドイツにできたのか?
シンクタンクでマーストリヒト条約の制定などに携わったヴェルナー・ヴァイデンヴェルト教授の話によると、敗戦後の占領軍(進駐軍)の統治政策の違いが挙げられる。
つまり、ドイツでは占領軍がナチスを再興させないために中央集権を徹底的に忌避し、州が強い力を持つ地方分権の憲法を作ったのである。その後58回、時代の変化に合わせて憲法を改正しているが、地方分権の根幹は全く変えていない。
一方、日本の場合はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がお粗末だったため、何が日本の本質的な問題点だったのかということについての洞察が全くなかった。だから、二度と武力を紛争解決の手段として使いません、といった表面的な表現しかないし、統治機構に関しては「地方政府」という概念は不在である。
しかも、ドイツの占領軍にはアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人が多く、憲法をドイツ語ですんなり起草できたが、日本の占領軍は日本人通訳を介して起草し、その通訳がかなり勝手な推測(たとえば天皇制を廃止すると統治不能になる、など)で解説したと思われる。
このため、最初はGHQは天皇の戦争責任を断罪しようとしていたのに、結局、現行の昭和憲法(日本国憲法)も天皇が統治権を総攬する絶対君主制を規定した明治憲法(大日本帝国憲法)を踏襲し、第1章に「天皇」を持ってきてしまった。しかも、第8章の「地方自治」では「地方公共団体」などという地方自治・地方政府とは程遠い概念の言葉まで出てくる。
つまり、江戸時代から続いている悪しき中央集権が全体主義に至ったという洞察のないまま、文章に何となくアメリカ的な民主主義の匂いをちりばめて中央集権システムを維持したのが昭和憲法なのである。