フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」襲撃事件は、犯人の2人を射殺して終わった。「表現の自由を守れ」と、現地で開かれた大集会を見てコラムニストのオバタカズユキ氏は違和感を感じたという。
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フランスのパリでおきた風刺週刊紙の事務所襲撃事件。ヒトゴトではないと緊張した。私もライターとして、さまざまな対象を揶揄してきたからだ。
単行本のデビュー作は、「田原総一朗からビートたけしまで、もの言う文化人」201人にツッコミを入れた『言論の自由』(1993年刊)というお笑い本。その後も、有名人のみならず、「会社」や「大学」や諸団体のたたずまいや主義主張をとりあげて、おもしろおかしく表現をし、読者の笑いを誘う仕事をたくさんこなしてきた。
しかし、こうしたツッコミ芸は、さじ加減を少し間違えただけで、単なる誹謗中傷行為にズレる。いや、どんなにうまく表現しても、ツッコまれた側の人々の気分を害する可能性はなくならない。だから、この手の仕事をするときは、相手側から倍返しをされて当然、という腹の括りが必要で、同時に、そこまでして自分はその対象を笑いたいのか、といった自問自答をしないわけにはいかない。
今回の襲撃事件の報があって、私はすぐに、その週刊紙がどんな風刺をしてきたのか知ろうとした。グーグルで「charlie hebdo」を画像検索すると、同紙の表紙を中心に無数の風刺画が出てくる。「muhammad」をアンド検索すれば、画面のものはイスラム教に対する風刺画にだいたい絞られる。
当然のことながら風刺画に添えられた文字のほとんどはフランス語で、残念ながら私には読解力がないため、これはと思った絵についてはできれば日本語、なければ英語で訳しているサイトを探した。そんなこんなを一晩中やっていた。
そうしてみて改めて思ったのは、笑いは容易に他人と共有できない、という現実だ。風刺週刊紙の風刺画をじっと見ても、どれひとつとしてクスリと来るものがない。「風刺」は「笑い飛ばす」ことだけが目的ではなく、<社会制度に見られる構造的な欠陥や、高官の言動にうかがわれる人間性のいやしさなどを、露骨に非難せず、やんわりと大所高所から批評すること>(『新明解国語辞典第五版』)だとしても、「これが批評ねえ……」という違和感ばかりが募ってしまう。
ネットで拾った限りだが、『シャルリー・エブド』紙の風刺画は、あまりにも露骨な非難に偏り、ちっとも「やんわり」なんかしていないのだ。さじ加減がどうのこうのといった次元ではなく、バケツでどばどば毒の原液をぶちまけている感じ。人によってその感じ方は違うだろうから、個々でご覧になってほしいが、風刺というより侮蔑のオンパレードだと思った。たいていは、自分の中のNGラインを超えていた。
ところが、事件当日の7日だけでも、フランス国内で計10万人規模の抗議集会が開かれた。「表現の自由を守れ!」という叫びがあがり、「私たちは皆シャルリーだ!」と書かれたプラカードも方々で掲げられていたという。
それはずいぶんと支持者の多い風刺週刊紙なのだなあ、と思えば、発行部数は約3万部とのこと。愛読者は決して多くないようだ。でも、襲撃事件を抗議する人々は、「テロ反対!」だけではなく、「表現の自由を守れ!」を前面におしだす。私の感覚からしたら、『シャルリー・エブド』紙の絵は、風刺と侮蔑の線引きとしてNGなものばかりだが、少なくとも3万人のフランスの人々はそう思わないようだ。その感覚ってどんなものなのか?
日本のマスメディアで『シャルリー・エブド』紙に相当するものを私は知らない。が、<政治家、宗教から軍隊に至るまであらゆる権力を風刺することを目的としており、そのイデオロギーの根は左翼的で無神論的だ>(ウォール・ストリート・ジャーナル)という解説からすると、月刊誌『噂の真相』がわりと近かったといえるかもしれない。