日本の戦争報道は、明治10(1877)年2月に勃発した西南戦争に始まるとされる。従軍取材を行なった明治初期のジャーナリストたちは戦地に赴き、政府軍の庇護の下、生々しい戦況を綴った。時には虚実をない交ぜに「官軍vs賊軍」の戦いを煽った。
〈(賊は)我が官軍が暁雨を冒して突進するに驚ろき勇気も挫け防戦するの力なし……官兵は此勢に乗じ「すは勝軍ぞ追打せよ」と打掛打掛追立たれば、賊は枕を並べて討死し、さしもに猖獗(しょうけつ)なりし猪武者等も浮足になりて逃出し背より打たれて倒るもの数を知らず〉(東京日日新聞1877年3月30日付)
まるで、活劇のような描写が続く。
西南戦争の激戦地、田原坂での戦闘を伝える記事である。西郷隆盛が率いた「賊」が「官兵」(政府軍)の攻撃から逃げ、背後から討たれる様子が事細かに描写されている。それは「猖獗なりし猪武者等」の表現からも明らかな通り、戦争を「勧善懲悪」の物語に仕立て、ことさら政府軍の強さを強調するものだ。
西南戦争は、日本の新聞にとって「戦争報道」の幕開けとなる出来事だった。各社は記者を東京から派遣し、戦況の推移を連日書き立て報道合戦を演じた。中でも、政府軍内部に深く入り込み、軍の記録係として戦地取材を続けた東京日日新聞社長の福地桜痴(ふくちおうち)は、質・量ともに他紙を圧倒する従軍記事を書きスクープを連発。冒頭に一部引用した福地の連載「戦報採録」は、鹿児島から遠く離れた東京の読者を熱狂させたという。
それに対抗したのが、郵便報知新聞で「戦地直報」を手がけた若手記者は、後に首相となる犬養毅だ。
〈田原坂は死屍爛臭の気鼻を撲(う)ち……頭脳へ迄(まで)薫し一歩も進み難き程なり〉(4月6日付)
軍首脳部に入り込んだ福地と異なり、犬養は「砲煙弾雨の中を縦横に」駆け抜け最前線で取材を続けたという。