子供の頃に強い憧憬を抱いた『十五少年漂流記』や『コン・ティキ号探検記』の世界。仲間とともに厳しい困難に立ち向かい、友情を深め、生きる知恵を身につけていく──そんな“探険”を40年以上にわたり続けてきたのが、探検家の関野吉晴氏(66)である。
現在、上映中のドキュメンタリー映画『縄文号とパクール号の航海』には、2隻の丸木舟でインドネシアから日本まで約4700キロを航海する関野氏と仲間の姿が映し出される。
この丸木舟にエンジンはない。それどころかGPSも海図もない。星明かりと島影のみを頼りにした航海で彼が目指したのは、太古の人々が辿った軌跡を再現することだった。
関野氏は日本列島にやってきた古代人の足跡を3つのルートで追体験することに挑む。「新グレートジャーニー」と名付けられたこの旅は、シベリアからサハリンを経由して北海道・稚内に至る「北方ルート」、ヒマラヤからインドシナ、中国、朝鮮半島を経て長崎県・対馬に至る「南方ルート」と続き、最後の旅となったのがインドネシアからフィリピン、台湾を経由して沖縄県・石垣島を目指す「海上ルート」だった。
この「海上ルート」を辿るにあたり、関野氏はエンジンやGPSを使わないほかに、もうひとつ太古の人の旅に近づくための決断をする。それは舟を一から自分たちで造ることだった。
プロジェクトは2008年5月に始まった。まず千葉県・九十九里浜で砂鉄を集め、それをたたら製鉄によって斧などにする。その工具を持ってインドネシアへと渡り木を切る。現地の人の手も借りながら、気の遠くなる作業を経て出来上がったのが「縄文号」と「パクール号」の2隻。縄文号(全長6.8メートル、全幅6.3メートル、全高5メートル)は、高さ54メートル、直径1.8メートルの大木を切り倒して造られた丸木舟。一方、パクール号(全長11メートル、全幅8.3メートル、全高6.3メートル)は、現地に古来伝わる板を継ぐ造船技術によって造られた。
そして2009年4月、関野氏ら日本人4名とマンダール人の漁師ら6名は、インドネシア・スラウェシ島を出発。しかし、エンジンのない舟は逆風が吹くと進まず、1日の移動距離が10キロにも満たない日が何度もあった。
「航海の3分の1は風を受けて走り、3分の1は漕ぎ、3分の1は天候状況などがよくなるのを待つ時間でした」(関野氏)