1997年の神戸児童殺傷事件を起こした元少年Aによる手記『絶歌』(太田出版)に対し、様々な批評や感情がぶつけられている。この本をどう読めばよいのか。『地獄の季節』や『「少年A」14歳の肖像』(共に1998年刊・現新潮文庫)で当時14歳のAを描いた作家の高山文彦氏が答える。
──元少年Aの手記『絶歌』を読んだ率直な印象は?
高山文彦(以下、高山):まず感じたのは、やはり本書はまだ出版されるべきではなかったということです。より正確に言えば、私はこの程度の内省や分析しかできていない段階で手記を出させた出版社の責任は重大だと思うし、遺族の了解を取らなかったこと以前の“編集者の不在”に怒りすら覚えますね。
そもそも彼の文章には他者性がない。自分の言動や思考過程を客観視する姿勢が悉く欠損しているんですね。彼を1人の“表現者”として見た時、そのことが残念でならないし、これなら私の方がよっぽどキミのしたことや考えたことを想像したし、取材したし、深くも考えたよと言いたくなる。本書は手記でも懺悔の記でも何でもない、ただの“私小説”ですから。
〈実際、遺族感情への配慮の欠如、印税の行方等々、Aが手記を出した行為そのものに批判は集中している。そこで未だ十分ではない「1冊の本」としての評価について本稿では訊く。〉
──『絶歌』は第一部と第二部で構成され、第一部ではAの幼少期~思春期の生育環境、そして事件に至る経緯や殺害の瞬間などが、読んでいて吐き気を覚えるほど詳細に描かれます。
高山:私に言わせれば全く十分ではありませんね。確かに彼が1997年2月と3月に4人の女児を死傷させ、5月に土師淳(はせ・じゅん)君を殺害した事件の前段階で、ナメクジを解剖し、猫を殺すシーンなどは、非常に視覚的で、あえて言えば『よく書けている』。彼は一目見た映像を正確に記憶し、再現できる“直感像素質者”でもあり、18年前の出来事をビデオでも再生するように克明に描写する能力は今も健在です。
それだけに、なぜ淳君をタンク山に誘い出して殺害し、なぜ胴部はそこに埋めて頭部は家に持ち帰ったかとか、彼にしか書き得ない核心を何も書いてないのが残念でね。何も残酷な場面を再現しろと言うんじゃないんです。猫を殺す場面なんて、直感像素質者としての能力を最大限に発揮してその経験を彼自身が追体験し、たぶん性的興奮を覚えながら書いたのではないかとさえ思う。