ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、50年前の2年にわたるアメリカ遠征帰りにアントニオ猪木が日本プロレス協会を辞めた「太平洋上の略奪事件」の裏側について語る。
* * *
昭和41年3月、アメリカでの2年間の武者修行を終えたアントニオ猪木は、帰国途中に立ち寄ったハワイで先輩の豊登(とよのぼり)に説得され、突然、日本プロレス協会を脱退。新団体・東京プロレスへの移籍を決意した。
これがプロレス史に残るセンセーショナルな事件として今も語り継がれる“太平洋上の略奪事件”だ。
一体どうして、猪木は日本プロレス協会をあっさりと辞めてしまったのだろうか。23歳の誕生日を迎えたばかりの猪木に、人生を大きく変えてしまうような決断をさせた豊登の“殺し文句”とは、どのようなものだったのだろうか。
まず、猪木がテネシーをツアー中だった昭和41年1月、猪木が滞在していたホテルに国際電話をかけてきた豊登が「新しい会社をつくる」と伝え、協力を要請したとする説がある。
また、猪木がロサンゼルス滞在中にも豊登が猪木に国際電話をかけ、新団体設立に関する具体的なプランを話したとする説もある。
しかし、結果的に猪木は、日本プロレス協会のアメリカ側代理人ミスター・モトの指示に従い、沖識名レフェリーに引率される形でハワイに向かった。だから、この時点ではまだ、豊登の誘いには応じていなかった、とみるのが妥当だろう。