米軍普天間飛行場の辺野古移設が紛糾していることに象徴されるように、基地問題は戦後70年が経った今も複雑であり、解決の糸口は見えない。その背景には、沖縄返還時に交わされた密約がある。元外務省国際情報局長の孫崎享氏が解説する。
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1965年8月19日、戦後初めて総理大臣として那覇空港に降り立った佐藤栄作首相(当時)は、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、我が国にとっての戦後は終わっていない」と宣言した。政治家としての強い決意が感じ取れるが、返還が実現したのは1972年で、それまで7年の歳月を要した。
沖縄返還交渉において、佐藤首相とニクソン米大統領の間に密約があったことは、広く知られている。アメリカが要求したのは、第一に、緊急事態においては、在日米軍基地への核兵器の再持ち込みを認めること。第二には、沖縄の軍用地を返還する際、原状回復にかかる費用を日本が肩代わりすること。表向きアメリカ側が負担することになっていたが、こっそり日本が肩代わりするという意味だ。
沖縄返還に関してはこの2つばかりが注目されるが、あまり知られていない第三の密約がある。「繊維密約」だ。
当時、アメリカでは、日本製の安価な繊維製品の輸入が激増し、繊維業界が大打撃を受けていた。1968年の大統領選で、ニクソン氏は繊維製品の輸入規制を公約に掲げて勝利し、次期大統領選でも繊維業が盛んな南部の票が是が非でも欲しかったので、彼にとって繊維問題は極めて重要な政治課題だった。
1969年11月に沖縄返還をテーマに開かれた日米首脳会談の2日目、佐藤首相とニクソン大統領の間で交わされた密約文書には、概要、こう記されていた。
〈適用範囲 すべての毛および化合繊の繊維製品
期間 一九七〇年一月一日から始まる五年間
基本的上限 一九六九年六月三〇日をもって終わる過去一二カ月間の貿易の水準
右上限の増加量 化合繊製品:一九六九年より始めて毎年五% 毛製品:一九六九年より始めて毎年一%〉