高速増殖炉「もんじゅ」の事故や度重なる点検漏れなどにより、事実上、頓挫している「核燃料サイクル」。しかし、2014年4月に策定された国のエネルギー基本計画でも、その方針は堅持されている。日本の原子力政策を複雑にしているのは、1955年に端を発する日米原子力協定だった。共同通信社編集委員の太田昌克氏が、日本の原子力政策の根底にある同協定についてレポートする。
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一般にはあまり知られていないが、日本の原子力政策は黎明期から一貫して「盟主」米国の庇護のもとにある。
日本が主権を回復した1950年代、第五福竜丸の被曝事件による反核・反米感情の増幅を怖れ「原子力の平和利用」をアピールしたい米国と、エネルギー資源を求める日本の利害が一致。1955年に米国が日本に研究炉と濃縮ウランを供与する「日米原子力協力協定」が結ばれた。
この頃から日本の原子力政策は、使用済み核燃料を再処理し、取り出したプルトニウムとウランを再利用する「核燃料サイクル」を根幹としてきた。プルトニウムは核兵器に転用できる。そのため、1968年、民間に原発事業の門戸を開く目的で日米協定を改定した際、日本が米国産の核燃料を原発で燃やし、その後に出る使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを生成するには「米国の同意が必要」と定められた。これ以降、日本の原子力政策の根幹部分で「生殺与奪の権」を米国が握るようになった。
1974年、インドが「平和的核爆発」と称して核実験を行ったことで、「原子力平和利用」の死角を痛感した米国は、以後、核不拡散政策を大幅に強化し、民間レベルでの再処理事業に否定的態度を取り始める。この米国の新方針は、茨城県東海村に建設した再処理工場を稼働させようとしていた日本の政策と真正面からぶつかった。