国会前を若者たちが埋め尽くした。戦後を知る者の脳裏をかすめるのは、今から55年前、「60年安保」として記憶される季節ではないか。当時首相の岸信介が強行した日米安保改定に抵抗した全学連(全日本学生自治会総連合)、その委員長が唐牛(かろうじ)健太郎だった。9月14日発売の週刊ポスト(9月25日・10月2日号)で、ノンフィクション作家の佐野眞一氏が、唐牛の生涯を辿りながら戦後日本を照射する連載を開始した。佐野氏はその冒頭で、2つの安保闘争の差異についてこう綴っている。
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こんな光景を間近に見たのは、半世紀ぶりだろうか。青山墓地にほど近い青山公園。旧陸軍の射撃場跡地と引揚者住宅跡地を整備した公園を出発地点として8月23日、安保法制化に反対するデモが開かれた。
普段、集会は国会議事堂前でも開かれる。この青山公園のデモは、主催者発表で6500人だったが、翌週日曜日の8月30日の国会前の抗議行動には、主催者側発表で12万人もの参加者が集まった(例によって警察発表はこれよりずっと少ない3万人)。
この集会を企画した中心メンバーは、「SEALDs」という10代から20代の都内の学生組織である。大学教授などの学者グループや子育て世代の女性たちも参加しており、ベビーカーを押す主婦たちも目についた。また、杖をついた年配者も少なくなかった。
若者たちは鐘やドラムを叩き、そのリズムに合わせて「戦争法案いますぐ廃案」というラップ調のシュプレヒコールをあげる。
何もかも50年以上前の安保闘争とは様変わりしていた。デモを規制する警官隊は数名いたが、デモにつきものの機動隊員の姿はなかった。道路脇の装甲車の中で休んでいる機動隊員たちの姿が、このおとなしいデモを象徴していた。私などの世代はデモ=乱闘というイメージがあるが、彼らは整然と行進し、渋谷で流れ解散となった。