技術大国・日本を象徴するのが、新幹線をはじめとする高度な鉄道システムである。その礎となったのは、GHQの占領下、航空機の開発を禁じられるなどして不遇の立場にあった旧日本軍の技術者たちが持つ熟練の技だった。
新幹線の前身となる高速鉄道の建設計画が、戦前から進められていたことは意外に知られていない。
通称「弾丸列車計画」。朝鮮半島や中国大陸への輸送需要の急増にともない、日本政府は、東京から下関まで日本を縦貫し、そこから船で釜山に渡り、京城(現在のソウル)から二手に分岐して満州国の新京(現在の長春)と中国の北京に至るという壮大な計画を立案した。
1940年に帝国議会が承認したこの「広軌幹線鉄道計画」では、日本の在来線より広い世界標準のレール幅(幅1435mm)を採用し、鉄道車両は新しく建設された専用レールを最高時速200kmで走り、東京・大阪間を3時間半で結ぶのが目標だった。これは大陸側を除けば、新幹線のコンセプトとほぼ同じである。開業は1954年を予定していた。
戦時中も建設は進められ、静岡県の日本坂トンネルは工事完了し、用地買収も終了していたが、戦況の悪化で計画は中断。再開されたのは終戦後である。
ここでキーマンとなったのが、「デゴイチ」の愛称で知られる蒸気機関車D 51形の設計者で、戦前から計画に携わっていた島秀雄という車両設計技術者だ。
『新幹線をつくった男 島秀雄物語』(小学館)の著者で、ジャーナリストの高橋団吉氏はこう語る。
「島はエリートとして育てられ、2度の外遊経験があり、戦時中も米軍向けラジオ放送を聞いていた。日本が戦争に負けることはわかっていたはずで、だから彼は戦中から敗戦後の復興計画を練っていたのです」