ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、昭和46年末に起きた、日本プロレス協会からの猪木追放事件の発端についてお届けする。
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昭和46年12月13日、日本プロレス協会は、渋谷区代官山の本社オフィスで記者会見を開き、アントニオ猪木の除名を発表した。
報道陣の正面に座ったのは、平井義一・日本プロレス協会会長、芳の里・日本プロレス興業代表、大木金太郎・日本プロレス選手会会長代理の3者だった。
当初、この日は日本プロレス選手会と日本プロレス興業の社員一同による親睦ゴルフ大会が行なわれる予定だったが、年度の打ち上げを兼ねた恒例の行事は中止となり、その代わりに緊急記者会見が開かれた。この会見の模様を当時の専門誌(『プロレス&ボクシング別冊』1972年2月号=ベースボール・マガジン社)の記事から引用する。
〈全員がゴルフ場に出向いて楽しくやっているスキに、猪木が会社の定款書換えから役員・重役・平社員・一部選手の追放まで一気にやってしまおうとした“乗っ取り”──(中略)。〉
〈猪木派は、選手の間に人望ある者の抱き込みにかかった。
それは、三年間もアメリカにいて事情にうとかった上田馬之助であり、そして最大のキー・マン(原文のまま)、ジャイアント馬場であった(中略)。
二人を説き伏せる理由……それは、いま日本プロレス内部で目下の急務とされている“機構改革”(中略)。
この点では両手を挙げて賛成したジャイアント馬場と上田馬之助も、裏にかくされた真意を見抜くに時間はかからなかった。〉
翌12月14日、猪木側も、この事件の黒幕とされる木村昭政・後援会会長とともに都内で記者会見を開き、反論の“声明”を発表した。
「私が会社乗っ取りを計画したことになっていますが、決して会社乗っ取りなど策したことはありません」
「会社の公金が他に流用されているといううわさがありました。このため、馬場選手らと相談、会社の経理を公開してもらおうと申し入れました。一度はこれが聞き入れられ、調査を始めましたが、途中から中止されました」
「商法違反、私文書偽造、名誉棄損、それに業務上横領の疑いもあるので、法廷に持ち込んで、公正なる第三者の審判をあおいで、決着をつけたいと思います」