昨年12月3日、NHKの夕方の情報番組「ゆうどき」に出演した俳優・宝田明氏は、『ゴジラ』出演時などの思い出とともに、幼少期を過ごした旧満州(現・中国東北部)のハルビンでのソ連軍の侵攻や、命からがら日本に引き揚げるまでの体験を語った。そして、「戦争は絶対に起こしちゃいけない」というメッセージはネットでも大きな反響を呼んだ。ノンフィクション作家の佐野眞一氏が、満州からの宝田氏の過酷な引き揚げについて聞いた。
〈宝田一家に帰国の目途がついたのは、敗戦の翌年末だった。満鉄で北京と旧奉天(現・瀋陽)のほぼ中間にある葫芦島まで行き、そこから日本行の船に乗り込んだ。宝田家はそのとき可愛がっていた犬を家に置いてきた。〉
「犬は連れていけませんから、みんな饅頭の中に青酸カリを入れて食わしたんです。すると5秒もしないうちに痙攣を起こしてひっくり返る。食べたばかりの饅頭をぶわっと吐き出したかと思うと、それっきり、もうぴくりとも動きません。でも我が家の犬にはそんなことできなくて、石炭箱の中に食料と水をたっぷりやって置いていったんですが……」
〈ハルビン駅から満鉄の列車に乗ったのは、夕闇迫る頃だった。これでハルビンともお別れだと宝田がぼんやりホームを見ていると、犬がホームに駆け上ってくるのが見えた。〉
「それがうちの犬だったんです。犬は列車の窓をずっとのぞきこみながら歩いてくるんです。犬の嗅覚は人間の八千倍鋭いといいますからね。僕は見つからないよう窓を閉めて、体を伏せてね。僕が列車の最後尾に行って見ていると、犬も列車を追ってタタタタって走ってくる。たまらんかったですよ」
〈引き揚げの混乱の中で、宝田家は中学3年の長兄を見失った。満州を去るとき、その長兄宛に「私たちはここに帰ります」と新潟県北端の日本海に面した村上市の本籍を書いて、ハルビンの駅頭に貼りだした。途中停車した駅ごとに、同じ張り紙を掲示した。
帰郷してからは、母親が新潟市まで魚の買い出しに出かけ、村上の道端で「はい、ホッケいかがですか、タラいかがですか」と客を引くのが、宝田家の生業になった。〉