戦後日本を占領したGHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。それを受け入れることは「日本国家の消滅」を意味する。
外務省官僚として、そして外相として戦中戦後の外交を担った重光葵(まもる)は、マッカーサーを相手に一歩も引かずその方針を覆させ、日本を救った。重光は1945年9月2日、東京湾に停泊するミズーリ艦上で連合国の降伏文書に調印した。「明治以降で最も偉大な外交官のひとり」とされる重光の交渉術について、作家で歴史資料収集家の福冨健一氏が解説する。
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敗戦直後、東久邇宮内閣の外相となった重光は冒頭のように日本政府全権として降伏文書に調印しました。
ホテルに戻り、義足(※注)を外し一息ついていると重大な話が舞い込みました。連合国総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが日本に軍政を敷くとの急な知らせでした。
【(※注)1932年に上海で行なわれた天長節記念式典の席上、駐華公使として出席した重光は朝鮮人の独立運動家が投げた爆弾で右脚を切断する大怪我を負った】
占領軍の布告第一号は、「行政、司法、立法の三権を含む日本帝国政府の一切の権能は、本官(マッカーサー)の権力下に行使せらるるものとす。英語を公用語とす」という強硬なものでした。
日本政府は直ちに臨時閣議を開き、布告が中止されるよう働きかけることを確認。これを受け、重光は岡崎勝男・終戦連絡中央事務局長官と直接、マッカーサーのもとを訪れます。
GHQの最高司令官に対峙した重光は、「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求します。