山口組分裂騒動はどう展開していくのか。騒動勃発後、山口組にとって“特別な日”にその現場に居合わせたフリーライターの鈴木智彦氏がレポートする。
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12月1日早朝、新神戸駅を降りると真っ赤な朝焼けが広がっていた。15分ほど歩くと墓所に到着した。組員や幹部の姿はない。早すぎたのだろう。この日は五代目山口組・渡辺芳則組長の命日に当たる。故人の墓石は一般人のそれよりは立派だが、暴力団風の華美な豪華さはなく、ぱっと見ただけでは山口組トップのそれと分からない。
六代目山口組にとっては当然だが、離脱派が立ち上げた神戸山口組にも、五代目の命日は特別な意味を持っている。神戸側のトップは山健組の井上邦雄組長であり、五代目は山健組出身だからである。神戸側はどうやら別の場所で法要をするらしい。墓所を訪れるのは例年通り六代目山口組側で、命日を巡ってのバッティングは回避された形だ。
時間を潰して再訪すると、四方に戦闘服姿の組員が立っており、すでに山口組直参(二次団体組長)の慶弔委員が3人いた。周囲にはカメラを構えた兵庫県警が4、5人ほど待機しており、実話誌の取材陣は皆無だ。五代目の墓所で撮った写真を使うと、墓所の管理組合からクレームが付き、遺族に迷惑がかかるからだ。
媒体を聞かれたので本誌(週刊ポスト)の名前を伝えた。
「ポストが来るのは珍しいな。売り上げ増を狙って便乗しようって魂胆か」
苦笑いするしかない。しばらくして最高幹部がやってきた。
「この頃週刊誌(実話誌のこと)の書き方がめちゃくちゃやな。煽りすぎや。なに書いてもかめへんけど若い衆が心痛めるで。あいつら(神戸山口組)の考え方はな、もう辛抱して辛抱して辛抱してとうとう辛抱できへんようになって刀抜いた、責められて責められて責められて堪忍袋の緒が切れたといったふうに、日本人が好きな大石内蔵助みたいなムードを作ってる。実際はちゃうやんか。執行部だったんはあいつらやんか」