1931年、アジア人として初の国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)所長となった安達峰一郎は、ヨーロッパでは「世界の良心」として讃えられている。我々日本人だけがよく知らない、世界が称賛する日本人の一人だ。
安達はオランダで客死。オランダ国家は「国葬の礼」を、国際法廷は「常設国際司法裁判所葬」をもって死を悼むとともに、彼の功績を讃えた。大国・小国に関係なく公平な判断を下す安達は特に小国での人気が絶大で、「コルフ島事件」(※注)で裁定を受けたギリシャでは「日本人といえば安達峰一郎」とまでいわれた。
【※注:1923年にイタリアがギリシャ領コルフ島を砲撃した事件】
1869年、山形で生まれた安達は国際法を修めるため上京。東京帝国大学仏法科を卒業後に外務省に入り、外交官としてのキャリアをスタートさせた。安達の有能ぶりを安達峰一郎記念財団の常務理事・吉田正文氏が話す。
「豊富な国際法の知識はもちろん、当時の外交で公用語だったフランス語のみならずイタリア語、英語を武器に国際交渉の最前線で戦っていました。日露戦争の講和条約を結ぶため1905年に開かれたポーツマス講和会議では、ロシア全権代表のセルゲイ・ヴィッテがまくしたてるフランス語を冷静に日本語訳して小村寿太郎・日本全権に伝えるという重責を担いました」
その後は国際連盟の日本代表理事として活躍。第10回総会まで連続して日本代表を務めた。
「第一次大戦後、カリフォルニアで日本人の移民問題が起きた時には、ヨーロッパ人の移民は規制しないのに日本人は規制するという内容に、安達は日本を代表してきちんと法律論に則って不合理があると訴え認めさせました。当時、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造をして『安達の舌は国宝だ』といわしめました」(吉田常務理事)