ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、昭和48年、新日本プロレスで猛威を振るった“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンについてお届けする。
* * *
昭和48年は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のほんとうの闘いがスタートした年だった。
猪木が新日本プロレス(昭和47年1月)、馬場が全日本プロレス(同年9月)を設立し、団体のオーナーとなったことで―共通の師・力道山がかつてそうであったように――ふたりはそれぞれのリングで“製作総指揮・監督・主演”のポジションに立った。
猪木の宿命のライバルとなるタイガー・ジェット・シンが、新日本プロレスのリングに初登場したのも、この年の5月だった。
『ゴールデン・ファイト・シリーズ』開幕戦(5月4日=川崎市体育館)に客席からの私服姿での“乱入”という形で衝撃的なデビューを果たしたシンは、同シリーズ中盤戦の岐阜(5月25日)とシリーズ最終戦の大阪(6月14日)で猪木とシングルマッチで2回対戦(1勝1敗=いずれも反則裁定)。プロレス史に残る“因縁ドラマ”のロングランはここから始まった。
やや蛇足になるが、シンのリングネームは、本拠地のカナダ・トロントではタイガー・ジート・シンだが、日本ではミドルネームのジートが“ジェット”というテレビ向き(?)なカタカナ表記で統一された。
馬場がアブドーラ・ザ・ブッチャーを、猪木がシンをそれぞれ“大悪役”としてキャスティングしたことで、お茶の間の一般視聴者にとっては“4チャンネルのプロレス”と“10チャンネルのプロレス”のストーリーラインが、たいへんわかりやすいものになった。
ブッチャーのニックネームは“呪術師”で、得意技は頭突きと凶器攻撃。シンのニックネームは“インドの狂虎”で、得意技はコブラクローとサーベル攻撃。いまになってみるとそれは差別的な設定だが、悪いガイジンは“黒人”と“インド人”だった。
現在のテレビの放送倫理ではおそらく問題化するであろう“大流血シーン”が、この時代は毎週のようにゴールデンタイムで全国に生中継されていた。