数々の名監督の映画に出演した俳優の寺田農だが、実相寺昭雄監督とも相米慎二監督とも一緒に仕事をしたという意識はないという。彼らとの出会いや、独特の演出方法について寺田が語った言葉を映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』からお届けする。
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寺田農は、『ウルトラマン』やATGでの前衛的映画で知られるTBS出身の映画監督・実相寺昭雄と盟友関係にあった。
「出会ったのは俺が21、あいつが26の時。文学座でアトリエ公演というのをやっていて、それを見にきたのが久世光彦さんだったの。それで彼を介して実相寺と会った。『TBSで新しいドラマをやるから、若い人を探している』ということで。それが『でっかく生きろ』。
当時はヌーヴェルヴァーグの時代で、実相寺もその影響で物凄いカメラワークをしていた。そのやり方が面白くてね。でも、スポンサーはなんだかワカランと、彼を降ろすことになった。『実相寺が降りるなら俺たちも降りる』ということで俺も(古今亭)志ん朝も大モメにモメた。
実相寺とは兄弟分みたいな、一年365日ずっと一緒にいるような間柄。でも、それだけ仲良くやりながら映像の仕事はきちんとやってないんだよ。映像の方は岸田森がいたからね。
俺が実相寺とやっていたのはクラシックの朗読。オペラの芝居の部分を朗読していくというコンサートオペラをやっていた。
あいつの撮ったアダルトビデオにも出たな。そこの社長に言われて監督もやったことがある。『いいじゃないの、裸の姉ちゃんと遊べて』という感じだった。クラシックから美術から書・鉄道・AVまで。あらゆることに天才だったのが実相寺だよね。でも役者には興味なくて。後半は俺がキャスティングディレクターをしていたんだ」
相米慎二監督作品には、『セーラー服と機関銃』(1981年)以降、ほとんどに出演してきた。