母・サクさんと(橋幸夫。1989年)
「孝行のしたい時分に親はなし」というが、男にとって生まれて最初に接する異性である母の愛のありがたみは、失ってみて初めて気づくことがほとんどだろう。「瞼の母」の思い出を、歌手の橋幸夫氏(73)が語る。
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僕は6男3女の9人兄弟の末っ子。長男とは24歳も違います。家業が染物屋だったし、長男が青年実業家として手広く商売をやっていたので、母も手伝っていました。母はいつも忙しく動き回っていましたね。
そのため、僕は兄弟の影響を強く受けた。兄たちが通う道場について行くうちに、小学校で空手を始め、柔道、ボクシングと格闘技の道を進んだ。中学時代、空手仲間のちょっとグレた連中と付き合うようになりました。
学校の先生から「橋の仲間が心配」との報告を受けた母は、仲間と切り離すために、僕を作曲家の遠藤実さんの歌謡学校のレッスン生にさせる作戦に出た。
中学2年に始めたレッスンは週2回。学校から帰ってくると兄に拉致されるようにバイクで中野から西荻窪まで送迎された。母から「そのうち好きになる」といわれながら、3年間一度も休まなかった。母や兄の顔を潰せないというのが正直な気持ちでしたね。
高校2年の春に『ロッテ歌のアルバム』という音楽番組で歌手デビューが決まった。母は大喜びしたが、親父は反対だった。そのため心臓病で入院していた親父に内緒でデビューすることにして、病室にテレビを持ち込んで生放送を見せて無理やり承諾させた。今考えても心臓には相当悪かったと思いますね(笑い)。
デビュー曲の『潮来笠』は爆発的なヒットとなり、レコード大賞新人賞を受賞した。3年目には吉永小百合さんとデュエットした『いつでも夢を』でレコード大賞、その4年後には『霧氷』で2回目のレコード大賞を受賞しました。
そんな僕の追っかけの第一号が母でした。地方公演はもちろん、テレビ局などどこでも付いてくるようになった。デビューして2年間は、未成年ということで姉がマネージャーをしてくれた。それに追っかけの母。昔の撮影所の写真を見ると兄たちが必ず映っていた。