今年で58回目を迎える年末の風物詩、日本レコード大賞。しかし、今年11月には『週刊文春』が“レコ大の買収”を報じた。芸能プロ「バーニングプロダクション」が、2015年のレコ大の大賞である三代目J Soul Brothersが所属する「LDH」に、〈年末のプロモーション業務委託費〉の名目で1億円の請求書を出したというものだ。バーニングプロ社長の周防郁雄氏は芸能界の有力者として知られている。この報道を受けて一部では「中止すべきだ」との声もあったというが、2016年も例年通り開催される。
日本レコード大賞が始まったのは、日本が敗戦から復興を遂げた1959年。「皇太子ご成婚」でテレビ受信契約が飛躍的に伸びた年だった。
その前年、日経新聞の音楽記者・平井賢の呼びかけで、国民栄誉賞の作曲家、古賀政男や服部良一ら錚々たるメンバーが日本作曲家協会を設立。同年にアメリカで始まったグラミー賞にならったものだった。当初は会場も小規模で、年末の昼間に放送されていた時期もあった。
1969年、大晦日夜7時から9時までの生中継を始めるとレコ大人気は急上昇。視聴率は10%台から30%台になった。
「あの頃はレコ大受賞者が紅白のオープニングに間に合うかどうかドキドキ。レコ大の会場の帝国劇場からNHKまで、出演者が移動する車をヘリで中継してたこともありました」(50代主婦)
世代を超えて親しまれる大ヒットが生まれていた時代。「大賞が誰か」はお茶の間の注目の的だった。
1972年の大賞候補は、沢田研二、五木ひろし、小柳ルミ子、和田アキ子、ちあきなおみという豪華な顔ぶれ。なかでも小柳の『瀬戸の花嫁』と、ちあきなおみの『喝采』の対決が注目を浴びた。
「ちあきなおみさんが大賞を受賞した時のことは、今でも忘れられません。『喝采』は彼女が恋人の死という実体験を歌ったといわれていて、子供心に衝撃的でした。遠くを凝視しながら歌うその目が潤んでキラキラと輝き、鬼気せまる声が胸に突き刺さるようで…。ふと横を向いたら、隣で見ていた母がボロボロ泣いていました」(60代主婦)
以降、レコ大は伝説的なシーンを次々と生み出していく。1975年、「今年こそどうしても大賞がほしい」と意気込んでステージに上がった布施明は、緊張のあまりにギターのコードが外れるハプニング。それでも『シクラメンのかほり』で見事に受賞した。