天海祐希との交際説も
谷村さんは1970年代にフォークグループ「アリス」のメンバーとしてヒット曲を世に送り出し、一時代を築いた。1980年に発売したソロでのシングル『昴』は国内のみならずアジアでも大ヒットし、とりわけ中国では空前の人気曲となった。
「谷村さんは1981年には北京で日中共同コンサートを開催し、その後も日中友好に尽力してきました。2007年に温家宝首相(当時)が来日した際の日中首脳会談での晩餐会、2010年の上海万博の開会式、そして2018年9月に北京で催された日中平和友好条約締結40周年の記念式典と、日中関係の節目となる大きな行事では必ずといっていいほど谷村さんが『昴』を熱唱してきたんです。彼はいまもなお、中国国内で絶大な人気を誇っています」(音楽関係者)
ほかの歌手に提供した楽曲も数多く、1978年には百恵さんの名曲『いい日旅立ち』を作詞作曲した。
「当時、百恵さんは『横須賀ストーリー』や『プレイバックPart2』など、少しはすっぱなイメージで売り出されていました。しかし、谷村さんは百恵さんに“国民的な歌手になってほしい”と思い、子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、誰もが口ずさめるような歌を作ろうと考えていた。
曲ができてすぐに谷村さんが百恵さんに電話をすると、百恵さんが『聴かせてください、いますぐに』というので、谷村さんは受話器を耳に挟み、ギターを弾きながら歌ったのです。百恵さんは感動し、『素晴らしい』と声を上げたそうです」(当時を知る音楽関係者)
国鉄(現在のJR)のテーマソングとして書かれたこの曲は、谷村さんの願い通り、年代を問わず誰からも愛される曲となった。谷村さんと交流があった音楽プロデューサーの川瀬泰雄さんも、百恵さんに真っ正面から向き合う谷村さんの姿が忘れられないという。
「谷村さんが『いい日旅立ち』より前に百恵に作詞作曲した『ラスト・ソング』という曲のレコーディングに、谷村さんも来てくれていました。そこで彼からあったリクエストは、百恵にレコーディングのときも泣いて歌ってほしいということ。
百恵は、感情をかなり込めて、泣くぐらいのギリギリのところで歌ったのですが、谷村さんは“泣かせてください”って言うんですよ。ぼくはライブならともかく、レコードになるので、泣きながら歌わせるのは嫌だと反論したのですが、谷村さんは引かない。何回かそういうやりとりがあった後、谷村さんはスタジオを出ていってしまった。
やはり、ぼくは、音程が乱れるギリギリのところでレコーディングをしました。仕事で、あれほど熱く真剣に話し合ったこともすごく印象に残っています」
意外な人物との交流もあった。そのひとりが天海祐希(56才)だ。
「天海さんが宝塚を退団したばかりで、まだ20代後半の頃からですから、かれこれ30年近いつきあいです。仕事の関係者を通じて一緒に食事をする機会があり、意気投合。コンサートや舞台などにお互いを招きあう関係になったとか。過去には、天海さんが休暇でハワイに行っている間に、谷村さんも現地入りしたとして、“交際”がまことしやかに報じられたこともありました」(芸能関係者)
しかし、実際には男女ではなく、性別を超えた家族のような関係だった。
「谷村さんは2011年に『僕らの音楽』(フジテレビ系)で天海さんと共演した際に、“息子”のようにかわいがっていると話していました。本当に親子みたいに仲がよかった。
彼女は谷村さんの実の息子さんの結婚式にも参列したんですよ」(前出・芸能関係者)
※女性セブン2023年11月2日号