『黒船前夜』で大佛次郎賞を受賞した作家・渡辺京二氏と、名著『苦海浄土』作者である石牟礼道子氏。1960年代、編集者(渡辺氏)と作家(石牟礼氏)として始まった2人の交流は、ともに80歳を超えた今も続いている。両氏の「老々共助」の関係を、作家・高山文彦氏が綴った。
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石牟礼道子さんの住居兼仕事部屋は、熊本市内の病院の建物の四階にある。入院中ではない。奇特な医師が石牟礼さんのために部屋を提供している。
私は昨年から渡辺京二さんを同市内のお宅に訪ねはじめ、渡辺さんにつれられてここに通うようになった。渡辺さんは昨年一二月、ロシア、アイヌ、日本の遭遇史を描いた『黒船前夜』で大佛次郎賞を受賞した。八〇歳。押しも押されもせぬ現役作家である。知らないという人はあの名著の呼び声高い『逝きし世の面影』の作者といえばおわかりになるだろう。
石牟礼さんのやはり名著『苦海浄土』はこの一月、河出書房新社から世界文学全集の一巻として出版された。日本人作家の作品はこの一作きり。編者池澤夏樹氏の慧眼の賜物である。なにしろこれで『苦海浄土』三部作を一冊にまとまったかたちで読めるようになった。持ち運びできる。
石牟礼さんは八三歳。パーキンソン病を患う。週に三交代で介護ヘルパーの方々のお世話になっている。
海から生え出た樹木と、星のかたちをつくり浜辺に憩う巻き貝たち、そして千尋の谷に落ちていくとき自分の足首のあたりから抜け出、谷の上へ舞いあがり森の樹木にとまったいっぴきの蝶がおりなす「元素世界」の満ち足りた光景について石牟礼さんは語る。
「蝶がじっとしていると、そこに巻き貝たちがのぼってくるんです。海から風が吹いてきて、森の梢を揺らす。そうするとですね、葉っぱたちがひらひら、ひらひらして、音楽を奏ではじめる。すばらしい心地よい音楽。それは原初の音楽なんですね。私は二カ月間ずっと、その音楽を聴いておりました」
これは昨年、玄関のドアのところで倒れて足を折り入院していたときのことらしい。
背後の仕切りの向こうから、まな板をたたく包丁の音が聞こえる。次いでなにかを揚げる油の軽やかなひびき。キッチンペーパーに揚げたものを箸でつまんで乗せている。
ひととおり料理を終えた渡辺さんが私たちのテーブルにあらわれて、しばらく会話に耳を傾けていたが、「僕にはこういう話はさっぱりわからん。あなたにまかせる」と言って、玄関側にあるソファーに移り、たばこに火をつける。
「一日七本と決めたんだけどねえ」
もう石牟礼さんに料理をつくりはじめて一〇年以上がたつのではないだろうか。いまでも毎日午後の遅い時間に訪れ、郵便物を点検し、締め切り原稿のチェックをし、必要なときは手紙の代筆をし、料理をつくる。
「この人は味にうるさいんですよ。気にいらないものがあると、箸でつまんで皿の片隅にどけるんだ。水俣の新鮮でおいしいものを食べて育ったからでしょうね。僕なんて出されたものはなんでもがつがつ食べるんですがね」
石牟礼さんの唇が三日月のかたちにひろがり、クククといういたずらっぽいソプラノの声。童女の笑顔である。