早坂牧子(はやさか・まきこ)さんは、1981年東京生まれ。2005年、仙台放送にアナウンサーとして入社。スポーツ、情報番組で活躍する。3月11日、仙台で東日本大震災に直面した彼女は、どのように仕事し、何を悩み、そして考えたのか。以下は、早坂さんによる、全7編のリポートである。(早坂さんは2011年4月、同社を退職、フリーアナウンサーとして再出発した)
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取材を進めていく中で、私にはどうしても会いたい人がいました。沿岸部の女川町にある「女川第一保育園」の所長(園長)先生です。年配の先生なのですが、以前取材で訪れたときにはとても親切にしていただき、温かいお人柄に惹かれていました。
しかし社内の取材規定で、いちばん被害が大きい沿岸部に女性アナウンサーは派遣されていなかった。とてもまともな精神状態でいられないほど被害が大きいこと、おトイレの問題があることが理由です。
そこで私はつかの間に開いた休みを利用して、会社に内緒で友人と2人で車をチャーターして半日かけて女川町と南三陸町に行くことにしました。そこで撮影した写真はどれも休みなどプライベートな時間を利用して自分で撮ったものです。
女川第一保育園は地図で見ると海岸近くに建っていてとても心配していたのですが、行ってみると高台の上にあり、施設も所長先生もみんな無事でホッとしました。女川町は揺れてから津波が押し寄せるまで30分の間があったそうです。
地震発生時はちょうど「お昼寝の時間」で、寝ていた園児たちを起こして園庭に誘導していたとき、ひとりの先生がふと海岸をのぞいて異様な光景を目撃したそうです。遙か向こうの海が、引き波で見たこともない高さまで盛り上がっていくのが見えたのです。「これは危ない」。機転を利かせてさらに高台に園児たちを連れて行ったのが良かった。
「良かったですねえ」
私が所長先生の説明に相づちを打つと、先生の顔がとたんに苦しそうにゆがみました。
「それが……揺れてから津波がくるまでの間に、3人のお母さんが心配だからと子どもを迎えに来て高台の下にある自宅に連れて帰っちゃったのよ……どの人ともまだ連絡が取れないから、もしかしたら……あのとき、私が無理にでも引き留めればこんなこにとならなかったのに……」
それを聞くとなんにも言えなくなってしまって、ただ先生と抱き合って泣くしかありませんでした。そのころ保育園は避難所になっていて、先生たちの中にも家が流されて無い方たちも多かったのですが、みなさん炊き出しなど他の被災者の方の支援活動をされていました。
「なにかしていないと涙しか出てこないから」
先生のひとりがぽつりと漏らしたそのひと言を今でも覚えています。
南三陸町はまさに瓦礫の山でした。テレビ局の人間がいうのもなんですが、テレビでみた映像を遙かに越えていて、見渡す限り360度、本当に瓦礫の山なんです。本当にここは街だったんだろうか。何度もロケで来たことがあったのに……鳥肌がたって収まらない。
安直ですが、言葉を失うとしか言えない。いつものリポートなら、目に映る光景の中からなにかの「とっかかり」のようなものを見つけて映像に言葉を載せていくんですが、その「とっかかり」がない。もしかしたらその瓦礫の下にまだ住民が埋まっているかもしれないと思うと、よけいに……。
聞こえてくるのは捜索活動をしていた自衛隊員の声と、瓦礫の山を撤去する作業の音だけ。ただ臭いはする。腐臭のような潮の香りです。本来なら海岸近くでしかしないものが、内陸に3キロ4キロ入った地点なのに漂っているのです。それはまるで凶悪な海の爪痕のような臭いでした。
のちに桜の花が満開になったニュースを見ていて先輩アナウンサーが「人を癒すのも、人を壊すのも自然なんだよなあ」とつぶやいたとき、私の脳裏によみがえったのはあの禍々しい潮の香りでした。ここに人がいてはいけない。本能がそう知らせてくる。帰り道、友人と車中で会話は一切ありませんでした。(つづく)