今は亡き昭和の野球場をたどるこのコーナー。今回は、当時の南海ホークスが本拠地を構えていた大阪球場のエピソードを紹介する。大阪の中心・難波駅の目の前という絶好の立地を誇ったこの球場。その内部ではこんな秘密もあったようで……。
1950年の大阪球場の建設は、GHQ(連合国総司令部)の経済科学局長・マーカット少将の一言で決まった。当時、阪神は甲子園、近鉄は藤井寺、阪急は西宮と、球団を持つ電鉄各社は、それぞれ自社沿線に本拠地球場を持っていた。土地が安価なうえ、球場まで観客を運ぶ運賃収入のメリットがあったからだ。
しかし南海にはなく、少将が本拠地を訊いた時、南海は「大阪ですが球場がないので甲子園を借りています」と答えた。それを聞いた少将が、大阪・ミナミの南海本社と隣接する専売局(現日本たばこ産業)の工場跡地を払い下げ、球場を造ることを認めたのだ。
しかし南海は、土地の高い繁華街の中に造る球場での収益に不安を感じていた。そこでスタンド下に事務所や店舗を入れ、不動産による安定収入を得ることを考えた。先に球場経営を行なっていた阪急グループ創業者・小林一三に相談したところ、「当初、私も西宮で同じことを考えていた」と賛同を得られたため、球場のスタンド下は、店舗・事務所はもちろんのこと、ビリヤード、卓球、ボウリング場まで兼ね備えた施設になった。
狭い敷地にできるだけ多くの観客席を造ったために、スタンドの傾斜は非常に急で、内野席の傾斜は37度に達した。試合では7回になると、灰田勝彦が歌う「ホークスの歌」が流れ、合唱するために一斉に観客が立ち上がったが、下を見るのも怖いほどだった。
だがこの急傾斜のスタンドは、選手たちに意外(?)にも好評だった。グラウンドレベルからスタンドを見上げると、女性のスカートの中が簡単に覗けたから、らしい。