政党の乱立で予想が難しいといわれていた今回の総選挙。しかし、だからこそ学ぶべきことがある。コラムニスト・勝谷誠彦氏は、選挙を通して我々日本人が「無知の知」を自覚すべきだと説く。『メルマガNEWSポストセブンVol.44』に掲載された同氏のコラムを2ページにわたって一挙全文掲載する。
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投票を前に、あるいはもう国民の義務を済ませた向きには振り返るべきこととして、私は民主主義の祖国で偉大なる哲学者が語ったことを記しておきたい。
「自分自身が無知であることを知っている人は、自分自身が無知であることを知らない人よりも賢い」あるいは「真なる智への探求は、自己の無知を自覚することから始まるのだ」。私がもっとも尊敬する先哲のひとり、ソクラテスの言葉だ。彼の「ただ生きるな、善く生きよ」という警句は、私が座右としていることでもある。そして、これらはすべて同じことを言っているのだと私は思う。私なりの稚拙な解釈によれば「自分が何を見ているのか自覚せよ。呆然として流されることなかれ」ではないのか。
今回の総選挙について、大マスコミは「複雑だ」「投票先がわからない」などとしきりに書き立てる。普段ならばただの「あんたらにはわからないだろうね」という上から目線なのだが、今回に限っては、メディアもまた行方を読みきれずにいる。あるいは、いた。結果が出たあとにこれをお読みの方が、そう感じてくれるかどうかはわからないが。
先の二度の総選挙は「わかりやすい」選挙だった。いや「わかりやすい」構造をメディアが作った。郵政民営化、賛成か反対か。政権交代、賛成か、反対か。結果、チルドレンと呼ばれるバッタものが大量に生産され、有権者はおおいに後悔することになった。
だが本当に「わかりやすい選挙」だったのだろうか。郵政民営化がされるとどういうことが起きるのかを、有権者ひとりひとりが正確に把握していただろうか。民主党の党内ガバナンスがどの程度のものなのかを、わかって政権を任せたのだろうか。
そうではなかったと私は思う。煽り立てたメディアは確かに「第四の権力」として節操がなかった。だが、彼らもたかが商売なのだ。ひどい店でバッタものをつかまされたならば、買った方にも半分は責任がある。
ソクラテスの言うところの「無知の知」を私たちはどこまで自覚していたか。「そんなものは知らないよ」ですませ、「みんながあっちに行ったから、遅れないようについていこう」ではなかったか。謙虚に「私はモノを知らない有権者だから、勉強しよう」と考えて投票所に行った人がどれほどいるのか。
これは選挙に限ったことではない、この国はあらゆる場所で国民を甘やかしすぎてきた。選挙でいえば有権者に「あんたはモノを知らないからもっと勉強して来い」などという勇気は政治家にはなかった。いや、私が知る何人かの政治家はそうだったが、「傲慢だ」というレッテルを貼られ、不勉強を叱られた大マスコミはそろって叩きのめした。