実際に徳田は、徳洲会グループを拡大させる中で、故郷・奄美をはじめとする離島や僻地に総合病院を相次いで打ち立ててきた。政界に進出したのも、病院建設計画に医師会や政界、関連自治体から横槍を入れられることが多かったためであり、徳田に言わせれば、閉鎖的な日本の医療体制を変革するためには政治的パワーが必要だと考えたからだった。
そんな徳田が2002年ごろ、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した。ALSとは、意識や感覚はまったく正常なのに、体中の筋力が徐々に失われていく難病である。病状が進行して全身不随になった患者は、唯一残される眼球の動きで外部に意思を伝えるしかない。そんな状況に陥りながらも、徳田はグループ経営の指揮を執りつづけていた。
「徳洲会が行ってきた離島や僻地での医療は、本当にすごいことなんです。これは理事長にしかできなかったことだし、その目的のために猛進する姿は、私にとって途方もなく魅力的でした。『何でもあり』で突き進んできた人だったけれど、それが許されていたのは、(離島や僻地医療の)実績があったからです」(能宗)
だが、自らが掲げる目標に突進する徳田は、いつのころからか変質してしまったと能宗はいう(文中敬称略)。