医療法人徳洲会創設者にして、息子・毅氏にまつわる公職選挙違反容疑の“黒幕”と評される徳田虎雄氏だが、その「人柄」を探ると、善とも悪とも評しきれない素顔が浮かび上がってくる。ジャーナリスト青木理氏が、このたび上梓した『トラオ 不随の病院王 徳田虎雄』(小学館文庫)から徳田氏の「正体」に迫った。
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医療革命のため、政治の力を借りようとした徳田は1994年12月に新党「自由連合」を発足させた。当時、徳田とともに自由連合に参加した衆院議員は計7人。顔ぶれは、実に多種多様だった。元民社党委員長の大内啓伍。大蔵官僚出身で外相まで務めた柿澤弘治。「国会の爆弾男」こと楢崎弥之助。
そんな自由連合の創設メンバーの一人に、かつて“経済人類学者”として一世を風靡し、1993年からは政界に転じていた栗本慎一郎も含まれていた。
栗本は明治大学法学部の教授時代に出版した『パンツをはいたサル 人間は、どういう生物か』(1981年、光文社)などの著作で一躍脚光を浴びた栗本は、当時は京都大助手だった浅田彰や東京外大助手だった中沢新一らとともに1980年代の「ニュー・アカ(ニュー・アカデミズム)」ブームの牽引役の一人となり、テレビの討論番組などでも盛んに活躍していた。
そんな栗本に、徳田との思い出を振り返って欲しいと申し入れると、快くインタビューに応じるとの返答が寄せられた。実際に東京都内の仕事場で会った栗本は、脳梗塞の後遺症もほとんど感じさせず、“経済人類学者”らしい視座で徳田という男の深層を語ってくれた。
──徳田さんと初めて会ったのはいつだったんですか?
「確か1989年だったかな。当時、雑誌でいろいろな運動の取材をやったことがあるんです。その時、日本で一番激しい選挙をしているという奄美大島に取材で行ってね。保岡(興治)さん(自民党議員。長年にわたり徳田と激しい選挙戦を繰り広げていた)は現地にいなかったけれど、徳田さんはいて、会って話を聞いた。それが最初でした」
──どんな印象でしたか。
「いや、まあ……。とにかく変わった人でね。(その後に)付き合っている間もずっとそうでしたけれど、もう常識はずれだった(苦笑)」
──常識はずれ、というと?
「いろいろ尋ねると、とにかく滔々と持論を語りだす。まあ、それはそれで分かります。で、こっちも取材だから、話を前に進めるために『そうですね』って賛同的に相づちをうつことってあるでしょう。『なるほど』『ぜひ頑張ってください』くらいのことも言う。そしたら唐突に『支援するならカネをカンパしろ』って言い出すわけ。『選挙にいろいろかかって大変だから、カンパしてくれ』って(笑)」
──初めて会って、それも取材だったのに、「頑張ってください」と言った途端に「選挙資金をカンパしろ」と?
「もう、絶句したね。二の句が継げなかった。その後もずっとそうだったけど、とにかく常識からはずれてる」