日本によって同じように統治された台湾と朝鮮。しかし戦後、両国の評価は正反対だ。太平洋戦争で日本帝国軍人として高射砲部隊に属し、兄は南方戦線で戦死した李登輝・元台湾総統が日本による台湾統治の真実について語る。
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日本と中韓の関係がこれまでになく悪化している。台湾と中韓ではこれほど日本に対する姿勢が異なるのはなぜか。
かつて戦争相手だった中国は別にして、日本は戦前から終戦まで台湾と韓国に対してよく似た統治政策をとってきたはずである。しかし、戦後のその評価は台湾と韓国では正反対であり、韓国は統治時代を民族の恥とし、いまだに恨みの念を抱き続けている。
一方の台湾はどうか。台湾が日本に統治されることになったのは、日本が日清戦争に勝利して清朝が台湾を割譲してからだ。その講和会議で李鴻章は伊藤博文に「3年おきに乱が起きるような土地だが、必要か?」というような言い方をしたとされている。当時の台湾は未開の地と呼んでも過言ではない状態だった。
欧米諸国は、似たようなアジアやアフリカの国々を植民地としたが、彼らの目的は「略奪」であり、現地の住民は搾り取る対象だった。ゆえに、現地住民の生活を向上させようとか、教育を普及させようといった発想はなく、まして植民地を近代化するなど思いも寄らなかった。
しかし、日本の統治政策は欧米の植民地支配とはまったく異なっていた。日本は“主なしの移民の国”だった台湾を50年かけて近代化した。特筆すべきは、統治政策の中心に据えられたのが「教育」と「農業」だったということだ。
1895年4月に台湾総督府を開庁したわずか3か月後の7月に、芝山巌に最初の国語学校(日本語学校)「芝山巌学堂」を開校したことがその証左と言える。現在では芝山巌は台湾教育発祥の地とされ、「六氏先生」の慰霊碑が建立されている。
六氏先生というのは、匪賊に襲われて殺された6人の日本人教師のことである。当時、この地は匪賊の暴動で治安が悪化していたため、住民は日本人教師らに避難を勧めた。しかし、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と去らなかったために悲劇が起きた。文字通り、教育に命をかけた六氏先生の話は台湾ではよく知られ、慰霊碑にはいまも献花が絶えない。