スポーツ医学の権威として、世界的に知られるフランク・ジョーブ博士が他界した(享年88)。「再起不能」といわれた選手を何人も復活させてきた“ゴッドハンド”は、かねてから日本球界へ「警告」を発していた。スポーツライターの永谷脩氏が、ジョーブ博士との思い出をリポートする。
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ジョーブ博士は2008年に引退し、サンタモニカで悠々自適の生活を送られていると聞いていた。今年1月、ヤンキース入りをする田中将大がメジャーの身体検査を受けたのが、博士が共同出資していた「カーラン・ジョーブ医院」と知った時、まだまだ日本球界との縁があるのかと思っていた矢先の訃報だった。
私がジョーブ博士の連載取材のために、ロス郊外にあるセンチネラ病院を訪れたのは1989年のことだ。最初は手紙と電話で取材依頼をしたが、色よい返事が得られなかった。そこでアポ無しで米国まで出かけ、秘書の女性に日本人形のお土産を渡し、取り次ぎを頼むと、最初は躊躇していたが、「1時間後に来てくれ」ということで“交渉”は成立した。
当時、ジョーブ博士はセンチネラ病院の勤務医ではなく、その一室を借りる形で手術やドジャースの顧問医などをしていたので、個人の判断で話が通じたことも幸いしたのだと思う。
その後、博士が行なっていた5日間ほどの短期セミナーを2度受ける機会を得た。今となっては、その時にもらった受講修了証と、記念品の病院名入りの置き時計がいい思い出になっている。博士はこれを渡してくれる時、「世の中には取り替えができるものと、取り替えができないものがある。これはできるもの」と言って笑っていた。