現地時間の3月6日、スポーツ医学の権威として知られるフランク・ジョーブ博士が亡くなった(享年88)。日本国内で彼の名声を一気に高めたのが、元ロッテの村田兆治氏への手術成功だ。1983年に手術を受け、1984年のシーズン終盤に復活し、1985年には17勝をあげる見事な復活劇を果たしてカムバック賞を獲得した村田氏が、ジョーブ博士との出会いを振り返る。
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すべての始まりは1982年5月17日の近鉄戦。右ヒジを痛めた私は、国内で必死に治療法を探したが見つからず、途方に暮れていました。
そんな時、「米国で手術すれば治るかもしれない」という情報と、ジョーブ博士の名前を聞いた。ドジャースと巨人が友好関係にあることがわかり、アイク生原さん(*注)が間に入って繋いでくれました。実は今だから言えますが、あの頃はグルメブームの走りで、ヒジを痛める前から、友人とフランス料理店を共同経営する話があった。ジョーブ博士の名前を知らなければ、私は野球を諦めて、その道に進んでいたかもしれません。
【*注】本名・生原昭宏。早大野球部で活躍後、亜細亜大監督を経て渡米。ドジャース職員として実績を挙げ、オーナーの絶大な信頼を得る。日本からやってくる野球留学生の面倒を見るなど、日米の野球交流の架け橋として尽力した。1992年逝去、享年55。
ただ、渡米を決意するまでは悩みました。そもそも当時の日本では、体にメスを入れた選手が完全復活できたケースがなかった。それにいくらお金がかかるかもわからない。今のように球団が保障してくれる時代でもないし、今とは違う覚悟が必要でした。
考えるため熊野古道を歩いたり、滝に打たれたりしました。同じ手術を受けたロッテの後輩の三井雅晴に痛かったか聞くと、「痛いってもんじゃないですよ」と言われたのを覚えています(笑い)。散々迷いましたが、1983年8月21日、センチネラ病院で博士の診断を受けました。
博士は日本から持って行ったレントゲン写真などをまったく見なかった。野球を続けたいと申し出る私の腕を触りながら、「よくここまで頑張ったな」と言うんです。その時は思わず涙が出ました。
博士は「ヒジの腱が切れている。投げたいなら手術しかない」と言われ、ゆっくりとした口調で手術の内容について、「左手首の腱を5か所から取り出して、右肘を切り開き、骨に穴を空けてその腱を移植する」と説明されました。
これを聞いて再び不安になりました。本当に右腕が今まで通り使えるのだろうか、左手まで使えなくなるのでは……。おまけに博士は手術成功の可能性には一切触れず、「(手術を)受けるのか、受けないのか」だけを聞いてくるのです。でも最終的には、同行していた家内と相談し、博士を信じようと決断しました。