かつてのプロ野球は人間臭さに溢れていた。スポーツライターの永谷脩氏が、「子連れルーキーの開幕戦」を振り返る。
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今では滅多に見なくなったが、かつては「学生結婚」をしていたプロ野球選手がいた。代表格は西鉄三連覇の立役者・三原脩。早大時代、野球部合宿所「安部寮」近くの喫茶店のマドンナに一目惚れ。寮を抜け出しては会いに出かけ、入れ込みすぎて、一時は野球部追放になりかけたほどだった。
それから約30年後の1977年。同じく学生結婚で、しかも一児の父親という変わり種が、大洋にドラフト1位で指名された。福岡・西南学院大卒の門田富昭。看護婦をしていた5歳年上の共子夫人との出会いは、門田がケガで入院していたことがきっかけ。門田の一目惚れで、逢瀬を重ねるうちに一児を授かったのだ。まだ大学生だった門田にかわり家計を支えたのは、育児をしながら看護婦として働いた夫人だった。
門田は卒業後プロには指名されたが、活躍できるかは未知数。
「プロとして一人前になったら、必ず呼ぶ。待っていてくれ」
門田は妻子にそう言い渡して、単身、横浜に赴任する。
幸運にも、大洋では人に恵まれた。当時の監督・別当薫は慶大卒の粋人。自身も学生時代に同棲生活が発覚し、寮を追われた経験もあるから話も早い。「いい仕事をする人間にはその位の元気がなけりゃ」と理解を示してくれた。
しかも入団早々、いきなり開幕カードで起用される。当時の大洋は平松政次、野村収、斉藤明雄らがいたが、そんな中での大抜擢だった。別当といえば近鉄監督時代、高校を中退して入団した土井正博(のち西武)を一人前に育て上げた実績があり、新人発掘には定評があった。実際門田は、小倉商高時代には、「西の江川(卓)」といわれたほどの逸材であった。
栄えある開幕カード登板。夫人は夫の投げる姿を一目見たいとは思いながらも、場所は初めての横浜であり、「家計を考えるとそんな余裕はない」とすっかり諦めていた。そんな夫人の元に、新幹線のチケットとホテルの予約票が送られてきた。添えられていた手紙には、「ご主人の成績もあなた次第。苦労を承知で頑張り続けて下さい」と、監督名で手紙が添えられていた。
実は開幕前、大洋のマネージャー・亀井進が別当監督に呼ばれ、門田が開幕カードで投げる日に合わせて妻子が上京できるよう手配せよ、費用は監督交際費で処理しておくようにと指示されていたのである。しかも妻子が帰福する際には『崎陽軒』のシウマイまで用意する心配り。これを後に知った門田は、「この人のために」と懸命に投げ続けることを誓い、初年から39試合に登板するフル回転を見せた。