プロ野球という狭き門をくぐり抜けた男たちは、卓越した運動能力とメンタリティを兼ね備える。だが、そうした精鋭たちであっても、スター選手の名声を得られるのはごく一部。一流と二流を分かつもの──。その「何か」を求めながら、今季もグラウンドに立つ男の奮闘をスポーツライターの赤坂英一氏が描く。(文中敬称略)
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ペナントレースが始まった3月28日、脇谷亮太(32)は昨年に続いて開幕スタメンに名を連ねた。ただし、昨年は巨人、今年は西武と異なるチームで。
西武から巨人に移籍した片岡治大(31)のように、FA選手の場合ならよくあるケースだ。しかし、そのFAの人的補償でチームの替わった選手が2年連続開幕戦先発となると、寡聞にして前例を聞かない。脇谷が西武へ移籍させられた原因は、ほかならぬ片岡にあった。
脇谷が打ち明ける。
「正直、最初はショックでした。巨人では8年間やって、5回も優勝しましたから」
人的補償の対象は支配下70人のうちプロテクト枠の28人から漏れた42人である。28人の枠から外されて、傷つかない選手などいないだろう。しかし、脇谷はこう付け加えた。
「でも、要はぼくに力がなかったからです。巨人に残したい、と思われるだけの力が」
いったい脇谷には何が足りなかったのか。
2005年秋の大学・社会人ドラフト5巡目で一軍に定着した脇谷は、巨人では珍しい下位指名からのたたきあげである。5年目の2010年に自己最多の132試合に出場し、二塁の定位置をつかんだかに見えた。しかし、翌2011年に運命が暗転、右肘を痛めて靱帯の再建手術を受ける。選手契約を支配下から育成に切り換えられ、原辰徳監督にこう言われた。
「もう一回、リセットして戻ってこい」
しかし、リセットしたときに自分の居場所があるかどうか。満足な練習ができず、ストレスで酒量が増え、70キロ台だった体重が85キロに達した。同情的だった周囲の目も変わってくる。あんなに太ったらやばいぞ、と。
このころ、ジャイアンツ球場へよく様子を見にきてくれたのが、GM兼球団代表に就任したばかりの原沢敦だ。
前任者の清武英利が解任されて裁判沙汰に発展し、球団としても野球での結果を求められていた最中である。二塁の穴を埋めるべく、外国人やFA選手を補強することも検討していたはずだ。
「でも、腐ってはいられなかった。あのころは、小笠原(道大)さんや(高橋)由伸さんもファームにいて、試合でも練習でも常に目一杯やってる。おれはまだまだ甘い。育成になったおかげで、そのことがよくわかった」