選手ばかりに脚光が集まるプロ野球だが、裏方にも“名物”と呼ばれる人物が存在する。スポーツライターの永谷脩氏が、先月末に73歳で他界した名物記録員にまつわるエピソードを紹介する。
* * *
プロ野球80周年の開幕を前にして、名公式記録員だった五十嵐義夫が、定年により球界を去った。西武ドーム近くに自宅があり、趣味は蕎麦作り。試合終了後に“パンチョ”こと伊東一雄に連れられて、何度か訪問しては舌鼓を打ったものである。
記録員の判断一つで「エラー」も「ヒット」に変わることがある。五十嵐の記録員としての目は冷静で、わずかなグラブの動きも見逃さなかった。そんな五十嵐が「静」とするならば、「動」の記録員といえるのが、先月末に73歳で他界した河野祥一郎だった。
元々河野は、“カミソリ竜二”と呼ばれた、鈴木竜二セ・リーグ会長の書生として、この世界に入っている。私も自分の母親が、鈴木家の親類と同級生だった縁があり、永福町にあった鈴木邸によく招いてもらっていた。
正月ともなればお年玉がもらえるので、喜んで馳せ参じたものだ。そんな時も、家にはもちろん河野がいることが多かったのだが、ある年の正月、球界を代表する選手が、年始の挨拶に鈴木邸を訪れたことがあった。国鉄の金田正一である。
金田は応接間に入ると、いきなり鈴木の前で土下座をして、「オヤジさん、ワシは優勝したいんや。巨人に行くことを認めて下さい」と言った。当時、金田はB級10年選手制度(*注)による移籍の権利を保持していたのだ。その様子を隣の部屋から覗き見していた私は、「あの金田さんですら頭を下げる人がいるんだ」と思ったのを覚えている。