日本から大きく遅れて誕生した韓国球界は、日本とも深い関係を持っている。スポーツライターの永谷脩氏が、両国の野球に深く関わった選手についてのエピソードを綴る。
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昨年11月、元近鉄の捕手・石山一秀が電話をくれた。
「監督になってしもうた」
当時、石山はKBO(韓国野球委員会)「斗山ベアーズ」二軍監督を務めていたが、2014年から一軍監督に昇格することが決定したのだ。在日韓国人として生まれた経歴を持つ石山。日韓関係が悪化している最中、“在日”を監督に据えるなんて、斗山も懐が深いなと思ったものである。
石山は平安高(京都)を春夏連続で甲子園に導いている。実は元々、東尾修(元西武監督)とバッテリーを組む可能性があったという。
「同い年の東尾は、和歌山のすごい投手。最初はウチ(平安)に来ると聞いていたから楽しみにしていたのに、結局地元の箕島に残ってしまった」
お前が来ていたら甲子園で優勝できたのに―石山は、飲み屋で東尾に会うと、いつもこう愚痴っていたのを思い出す。
1969年に近鉄に入団。しかしプロ入り後は、選手ではなくブルペン捕手として一軍に帯同することが多かった。当時の近鉄の捕手に辻佳紀、有田修三、梨田昌孝らがいたため、一軍での出番がなかったからだ。
そんなプロ生活で石山が輝きを放ったのが、引退を決めていた1983年、10月21日の阪急戦だった。9回裏2死という最後の最後に代打で呼ばれた“日本球界での最終打席”で、見事プロ入り初本塁打を放ったのだ。入団14年目、32歳での初本塁打は日本記録にもなっている。