1991年以来のリーグ優勝を目指して、広島カープが快進撃を続けている。今年カープが優勝すれば23年ぶりとなるが、38年ぶりの優勝だったのが1998年の横浜ベイスターズ。スポーツライターの永谷脩氏が、当時の横浜を率いた権藤博氏のエピソードを綴る。
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23年ぶりの「赤ヘル」優勝に向けて、広島の街はお祭り騒ぎになっている。思い出すのは38年ぶりの優勝に沸いた1998年の横浜だ。勝負を決めたのは10月8日の甲子園球場だった。
その日、私は試合後に権藤博監督に呼んでもらって、宿舎の部屋でともに祝杯を挙げた。しかし嬉しくなって飲み過ぎて、便器を抱えて酔いつぶれてしまった。当時、一軍ヘッドコーチを務めていた山下大輔(現・横浜GM補佐)に、「お前くらいだぞ、監督の部屋で寝たのは」と笑われたのを覚えている。
『権藤・権藤・雨・権藤』といわれた彼の現役時代を、私はほとんど知らない。幼い頃、父親に連れられて行った川崎球場で見た姿が、「稲尾(和久)さんそっくりだ」と思ったことを記憶しているくらいだ。新人で2年連続30勝という偉業を成し遂げた大投手だということも、薄々しか知らなかった。
何かの記事で、契約金を返してコーチ職を辞した男がいるというのを読み、思わず名古屋の自宅に会いに出かけたのが最初の出会いである。あれは近鉄が優勝した1989年のことだった。記事には一軍投手コーチとして尽力した権藤が、退団を申し出た顛末が書かれていた。当時の仰木彬監督と球団幹部が「権藤は使えない」という話をしているのを聞き、契約があと1年残っていながら辞任を申し出たのだ。
残りの契約金もすべて返却した。そこまでして自分を貫き、職を失うことも厭わない。あなたの侠気、その強さのワケを教えてください──そう言うと、権藤はこう語った。
「知らないうちに、陰で組閣を全部やっていたからさ」
その後、東京のテレビ局で解説をする権藤とは球場でよく会った。手書きで原稿を書く私を見て、「ワープロを使えば30分位で書ける原稿を何時間かかっているの」と茶化していた。