【著者に訊け】奥泉光氏/『東京自叙伝』/集英社/1800円+税
主人公は、東京自身──。奥泉光著『東京自叙伝』の紹介はその一言で事足りるともいえよう。幕末から明治、大正、昭和、平成と、〈私〉は各時代を生きた男や女の体を転々と間借りし、自らの来し方を滔々(とうとう)と語る。
福沢諭吉『福翁自伝』に文体の範をとり、時に毒、時にユーモアを交えながら、この長大な自虐的モノローグを一気に読ませる奥泉氏は、その目的を自身の一貫した主題でもある「近代の検証」にあると言う。東京が何処へ向かうのかを問うことはこの国の未来を問うことと、ほとんど同義だ。
饒舌で皮肉屋で、自分が大好き! 本書で語り手を務める〈東京の地霊たる私〉の性格は、とにかく自意識過剰の一言に尽きる。また〈「なるようにしかならぬ」とは我が金科玉条、東京と云う都市の根本原理であり、ひいては東京を首都と仰ぐ日本の主導的原理である〉と嘯(うそぶ)く無責任ぶりは、もはや〈思想〉と言ってもいい。
「厳密にはその場その場で反応しているだけで、思想とは呼べませんけどね。僕は今のこの世界を考える上で不可欠な近代の形、特にアジア太平洋戦争には、作家になる前から強い関心を持ってきた。あの特攻にも等しい戦艦大和の出撃やノモンハン事件にしても、我々は未だ反省も歴史化もできてはいないわけです。そこに起きたのが福島の原発事故で、繰り返される無反省と現状肯定に人格を与えると、この小説になる」
本書を通じて東京の血肉化を図り、「語りの推進力」そのものが物語を生む現場を活写した奥泉氏は、それこそが文学の歴史に対するアンチテーゼだと語る。
「歴史はドイツ語でゲシヒテ、またはヒストリーとも言って、前者は物語、後者は史料の意味合いが強い。その成り立ちからして意図や虚飾と無縁でいられない歴史には、果たして正しく叙述され得るかという問題が常に付き纏(まと)うわけです。