スポーツライター・永谷脩(ながたに・おさむ)さんが、6月12日午前、神奈川県内の病院で急性白血病のため68歳で死去した。『週刊ポスト』誌上では、2013年5月より、球界関係者の知られざるエピソードを描く「白球水滸伝」を連載中だった。入院中も執筆意欲は衰えず、一度も休むことなく連載を続けた。永谷さんの同誌最後の原稿は、原辰徳監督(巨人)の父・原貢氏について綴ったもの。その全文を紹介する。
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6日、巨人監督・原辰徳の父で、投手・菅野智之の祖父である原貢(はら・みつぐ)の家族葬が行なわれた。菅野は貢が倒れてからも、動じることなくエースとして巨人を支えているが、これを見ると、祖父が菅野を巨人に入れようとしていた理由がよくわかる。辰徳も厳父を送り出し、その日の試合にも勝利した。
貢は1965年、無名校だった三池工(福岡)を夏の甲子園で初出場初優勝に導き、翌年、東海大相模の監督に着任した。父とともに、辰徳も神奈川に転校してきて東海大相模高に進学。1年時からレギュラーとして活躍し、原父子は1974年から夏3回・春1回(1975年)の計4回、甲子園に出場した。ただ春に準優勝(高知に敗北)となった以外は、あまり良い結果を残せなかった。
貢は鉄拳制裁も辞さない厳しい指導で知られる。思い出すのは辰徳が2年の夏。準々決勝で敗れて帰る東海大相模ナインと、JR芦屋駅でバッタリ出会った。聞けば在来線で横浜まで帰るという。厳しいですネと貢に言うと、「負けた人間が遊んでいる暇はない。新幹線は贅沢だ」として、「立って帰れ」とナインに厳命していた。
原の実家は小田急線・東林間駅近くにある。私が所帯を持った最初の場所が東林間だったこともあり、辰徳はよく家に遊びに来ていた。食事をしながら、「プロは広島がいい」などと、将来の夢を話したものだ。その時彼は「大学ならば東京六大学」と言っていたが、結局は父親と一緒に東海大に進む。まだ首都大学リーグが駒沢球場でやっていた頃である。この頃私は、辰徳の母・勝代が、夫にこんな話をしていたのを聞いてしまった。
「タッチンはあなたのために十分尽くしている。もうどこに出しても恥ずかしくない。堂々と主将にさせてあげてください」
実は辰徳は高校時代、主将ではなかった。監督とすれば、息子を主将にすることは勇気がいることだ。貢監督がどう考えたか、この一言が効いたかどうかは定かではないが、辰徳は東海大の主将となった。その後の活躍、巨人へのドラフト1位での入団は周知の通りだ。