東京都議会の野次が大きな問題になった。下品で差別的な野次は排除しつつ、ユーモア溢れる野次は考えられないのか。作家で人材コンサルタントの常見陽平氏が考える。
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都議会でのセクハラ野次が話題となってからしばらく時間が経ちました。「早く結婚した方がいい」という趣旨の野次を飛ばした自民党の鈴木章浩議員は、被害を受けたみんなの党の塩村文夏議員に謝罪しました。この件はネットでも炎上し、関連する記事が拡散しました。海外のメディアにも飛び火しましたし、ネット上での署名運動や、参議院会館でのシンポジウムなども行われました。
ここで少し立ち止まって考えてみたいのです。一つの事実を確認しておきたいと思います。それは、都議会に限らず、日本の議会において野次というものは飛ばされ続けてきたということです。いつも、ニュースなどで国会の中継が放送されるたびに、首相や大臣、議員が話す際には、裏で怒号のような声が響いています。よっぽどうるさい場合は議長が「静粛に」など注意をしますが、そうしない限り、野次は飛び続けているわけです。
今回の件は、セクハラともとられかねない発言だったということもあり、メディアが取り上げ大問題となったわけですが、やや穿った見方をするならば、これは氷山の一角にすぎず、新聞沙汰にはならないものの、問題発言とも言える野次などはこれまでも飛んでいた可能性があることが推測されます。
さて、ここで人はなぜ、議会で野次を飛ばすのかということについて考えてみたいと思います。主に次のような理由からではないでしょうか。
1.相手を威嚇するため
2.自分の意見の意思表示をするため
3.相手を叱咤激励するため
4.味方を応援するため
5.議論を活性化されるため
6.自分の存在をアピールするため
7.場の空気を変えるため
すべての野次がダメなのではなく、中には意味のある野次、ポジティブな野次、ウィットに富んだ野次というものもあるのではないかと思うわけです。本質論での野次、しかも、ウィットに富んだものはむしろ議論を活性化させるのではないかと。今回はさすがに差別的な意識に満ちており問題だと感じておりますが。
やや残念なのは、議会の野次は単なるガヤになっていないかと。そこで議員が幼稚なのではないかと感じるわけです。その野次は、ポジティブに機能しているかということを今一度、考えたいところです。