1965年から1973年まで読売巨人軍が9年連続してプロ野球日本シリーズを制覇した時代を、V9時代を呼ぶ。V9メンバーとして甘いマスクと赤い手袋でファンを沸かせた柴田勲氏は、投手として1962年に巨人軍入りしたが、翌年には打者に転向した。法政大学第二高校を夏・春連覇に導いた甲子園優勝投手だったにもかかわらず、投手をあきらめた当時の思い出を、柴田氏が語った。
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<柴田氏によれば、川上哲治監督はON(王貞治、長嶋茂雄)を中心に据えて、他の選手をいかに機能させるかということを常に考えていたという。その根底にあったのが、川上の参謀・牧野茂が提唱した「ドジャース戦法」であった。今でいう「スモールベースボール」だ。>
1番に足が速い選手を置き、2番はバントやエンドランなど細かいプレーができる野球巧者、3番はチームで最も出塁率の高いバッターを置いて4番には長打力のある主砲……まさに当時のV9のオーダーそのものですね。この川上構想において、僕は1番打者に適任だと考えられていました。
<柴田氏は、巨人入団時は投手だった。法政二高時代はエースで5番。1960年の夏、1961年春のセンバツで甲子園連覇を達成し、1962年に「甲子園優勝投手」として鳴り物入りで入団したのだ。しかし、プロでの投手としての成績は0勝2敗と振るわないまま野手に転向。左打ちに取り組み、1963年以降は俊足堅守のスイッチヒッターとしてレギュラーに定着した。>
プロの投手としての初登板初先発は1962年、阪神との開幕カードの2戦目でした。結果は5回途中、3本のホームランを打たれて負け投手になった。すると川上さんから「お前は球が軽い。しばらく投げないでいい」と投げさせてもらえなくなりました。
次にチャンスをもらえたのは7月の中日戦。今度は2回で6失点とさらに悪い結果でした。試合後、川上さんにロッカーに呼ばれていわれたのが、
「どうだ、これで踏ん切りがついたろう」
という言葉でした。今でも忘れられない一言です。