1960年のデビューから時代劇スターとして活躍した俳優・松方弘樹だが、時代劇そのものが不振に陥り、活躍の場が少なくなっていった。再び主役級スターに返り咲くきっかけとなった『仁義なき戦い』シリーズ出演時の思い出について松方が語った言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづる連載『役者は言葉でてきている』からお届けする。
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1960年代半ば、東映は不振に喘ぐ時代劇を諦め、任侠映画をメインの路線に据える。時代劇の頃は主役が多かった松方弘樹だったが、この時期は脇に回ることが多くなった。そして、1969年には大映に移籍している。早逝したスター・市川雷蔵の穴埋めを期待された松方は、『眠狂四郎』『若親分』といった雷蔵の当たり役を演じている。
「大映にはレンタルという形で行きました。東映にいても上がつかえていましたからね。岡田茂さんが『ちょっと大映に行ってこい。あそこはスターがいないから、主役を取れるぞ』と。
東映じゃあ、うだつが上がらないんですよ。役も二番手ならまだいいけど、その辺のいい役は待田京介さんとかがもらっていましたからね。任侠映画のほとんどを作っていた俊藤浩滋プロデューサーからも『お前はまだ若い』と言われていましたし。
大映だったら主役は勝オーナー(※新太郎)しかいませんから、京都には。ですから、喜んでレンタルで行きました。
ところが2年して大映が潰れちゃったから、東映に戻ったんです。で、またうだつが上がらなくて。それでも平気でした。人生をそんな真剣に考えていませんもの。もともと役者になる気もなかったわけですから。俊藤さんがキャバレーの巡業を組んでくれて歌も歌えましたし」
松方にとって大きな転機となったのが1973年の『仁義なき戦い』だ。この作品をはじめ、シリーズ五部作に3回登場していずれも殺される役を演じて強い印象を残した松方は、再び主役級のスターに名を連ねていった。